狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百四十七 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 残り火

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 騒動のさなかに千曲屋の奥から出た火は、たちまち店全体に回った。
 焔が天を焦がす、火勢が強い。しかし不思議なことに焼くのは店ばかり、近所に燃え広がることはない。
 大店の札差ゆえに地所が広く、しっかりした壁に囲まれており、隣の建屋とは少しばかり距離があったことが幸いしたのかもしれないが、そればかりではない。
 奇妙な風がふぅふぅ吹いては、飛び散る火の粉を押し戻していたのである。

 盛大な篝火を前にして、へたり込んでは呆けている男がいた。
 誰あろう、千曲屋文左衛門であった。
 はじめ、藤士郎はそれが誰だかわからなかった。なぜなら藤士郎の知る文左衛門とは、まるで別人のようであったから。
 かつて見かけたときには、いかにも大店の主人といった風にて、恰幅よく大きな狸の置物のようであり、全身からは自信が滲み出ていた。
 けれどもいまの姿は頬はこけ、頭は白髪だらけ、げっそり痩せ細り、ふた回りほども縮んでしまったかのよう。精力がみなぎっていた瞳に力はなく、昔日の面影が微塵もない。

 あまりの変貌ぶりに、ずっと文左衛門のことを捕まえるべく虎視眈々と狙っていた近藤左馬之助の方が、「このまえ見かけたときには、あそこまで酷くなかったんだがなぁ。大丈夫か、あいつ……」と心配するほど。
 同じく焼け出された店の者に訊いてみれば、ここ三月(みつき)ほどの間にみるみる変わってしまったという。
 それすなわち、ちょうど店に唐輪髷の義手の女と、美しくも不気味な小姓が出入りするようになった時機と符合するそうなのだが……。

 江戸で火事が出れば、すぐに半鐘が鳴らされ、火消しらが駆けつけ、逃げ惑う人々でけっこうな騒動となる。
 けれども今回の火事ではさほど騒ぎにはならなかった。
 大捕り物があった絡みにて、現場にはいち早く奉行所の手勢が出張っていたこともさることながら、その火事がわずか四半刻にて鎮火したからである。

 本当に不思議な……。いや、こうなると怪炎というべきか。
 火はあれよあれよという間に店を呑み込み、轟々と焼く。その勢いの空恐ろしいことといったらなかった。勇ましい火消し連中も近寄れやしない。幾多の火事場を潜ってきた百戦錬磨の彼らをしても手をこまねくほど。
 かとおもえば、勝手に燃え尽きて消えてしまった。
 始まりも突然であれば、終わりもまた突然であった。それこそ半鐘を鳴らす暇もないほどに。
 すべてが灰塵に帰す。
 苛烈だが、このいささか尻すぼみな結末に、その場に居合わせた一同は唖然とするばかりであった。

  ◇

 捕縛された者たちが続々と引っ立てられていく。
 外にたむろしていた連中もまとめてごっそりお縄となった。藤士郎に千両首をつけた大元も潰えたことだし、これで賞金首騒動の方も収束するはず。江戸の治安もきっと回復するだろう。
 幕府内での田沼さま絡みによる政治闘争の行方は……ちょっとわからない。しょせんは雲の上の話にて、市井の者の知るところではない。
 はてさて厳しい詮議とお白洲の場にて、千曲屋の悪事をつまびらかにし、加担した筋をどこまで辿れることやら。

「まぁ、どうせほどほどの玉虫色なところに落ち着くだろうさ。欲は言えば根切りの一掃だが、それをやれば幕府の屋台骨が揺らぐからな。いまいましいが、此度はこれまでだろう。だがな藤士郎、俺はまだ諦めたわけじゃねえぞ」

 そう言って胸を張る左馬之助は、どこか晴れやかで誇らしげですらもあった。
 友の横顔をまぶしそうに見ている藤士郎、その足下にて「ごろにゃあ」と鳴いたのは、いつの間にやら戻っていたでっぷり猫の銅鑼である。
 周囲に人の目があるので銅鑼は口を利かないが、ちょっとふらついており、首を持ち上げているのも億劫だと言わんばかりの態度だ。
 この様子だと、分断されたあとによほどのことがあったのであろう。
 だから藤士郎は銅鑼を抱き上げるも、その時のことであった。

 がらがらがらがら……。

 不意に音を立てて崩れたのは、火事あとの瓦礫の山。
 とたんに周囲に漂っていた焦げ臭がぐんと強まって、ぼぅと噴出したのはひと筋の火である。
 瓦礫の下で燻っていた残り火が、外の空気に触れたことで一時的に勢いを増したのか?
 いいや、さにあらず。
 なぜならその火には目があり、鼻があり、口があったから。
 その顔のなんと醜怪なことか。
 人面火とでも呼ぶべき妖しい火、そいつがちらりと藤士郎と銅鑼の方をみてにたりと笑った。

 怪異の出現に騒ぎ出す周囲にはかまうことなく、人面火は中空をにらんでは視線を彷徨わす。
 そしてある方角をじっと見つめていたとおもったら、やおら舞い上がってはそちらの方へと飛んで行ってしまったもので、一同はあんぐり。
 しかし藤士郎の腕の中にいた銅鑼だけは違った。
 はっとして「あっちの方角は……まかさ、鐘ヶ淵か! あのくそ野郎め、まずいぞ藤士郎、すぐにあれを追うんだ!」と言った。

 あの人面火は橈骨の残り滓のようなもの。
 銅鑼に敗れた橈骨が残る力を振り絞り、せめてもの意趣返しにと狙った相手は――。


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