狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百四十五 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 大魔鏡

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 夜の江戸の上空に、突如としてあらわれた小太陽――橈骨の放った二発目の火輪落星である。
 煌々とまぶしい巨大な火球が、八百八町へと向かっていく。
 次に訪れるであろう阿鼻叫喚の図を想像し、橈骨は喜悦の表情を浮かべていたのだけれども、それが不意に眉根を寄せた。

「うん? なんだ? あまりにも静か過ぎる。いかにとうに陽が暮れているとはいえ、変だな」

 江戸の庶民は基本的に早寝早起きだ。
 理由は夜更かしをすると行燈(あんどん)の油代がかさむから。
 だから晩飯を食べたら、さっさと寝てしまう。
 起きているのは油代を気にする必要のない金持ちか、闇夜にまぎれて悪さをたくらむ者であろう。明るいのは吉原界隈ぐらいのものである。
 というわけで、江戸の夜はおもいのほか暗い。
 それこそすりたての墨汁のごとくになり、町中でもちょいと暗がりに足を踏み入れれば、一寸先もおぼつかないほど。
 だからとて木戸には不寝番がおり、夜回りもいる。
 夜空にこれほどの異変が起きれば、もっと騒ぎになっているはず。

「なのに半鐘ひとつ鳴らされやしないとは……。これはいったいどうしたことだ?」

 いや、そもそもの話として江戸前の海にて、四凶同士が暴れ、鬼神らが衝突し、大嵐を呼び、ついには凄まじい爆発まで起こしたというのに、あまりにも反応がなさ過ぎる。
 あれではまるで無人……江戸の町から忽然と人だけが失せたかのようではないか。
 いや、そればかりではない。よくよく観てみれば、なにやら町全体の様子がおかしい。
 江戸城の向きがおかしい、隅田川の曲がり具合も妙だ。
 まるで左右があべこべになったかのような……。

 この段になって橈骨はあることに思い至り「はっ、まさか!」
 それとほぼ同時に火輪落星が江戸の町へと落ちる。
 が――地上に灼熱地獄が顕現することはなかった。
 それどころか、煙のひとつもあがらず、あいもかわらず町はしぃんと寝静まったまま。
 火輪落星がどこぞにふつりと消えた!
 かとおもえば、突如として世界がぱりんと割れて粉々に砕けてしまった。

 この光景を目の当たりにして、橈骨がぎちりと歯ぎしりにて鬼の形相となる。

「おのれ、やはりそうか! 貴様の仕業だな? 饕餮っ!」

 知識、財、この世のあらゆるものをひたすら貪り食らう、貪欲を象徴する魔物「饕餮(とうてつ)」
 四凶が一角にて、現在は人に扮し、津田屋重次郎(つたやじゅうじろう)と名乗っては江戸での暮らしを満喫している。
 その正体は心を映す大魔鏡である。
 見る者の心に秘めた願望や揺らぎによって、姿がころころと変わる。ゆえによほど物事の本質を冷静に見極める目を持たねば、まずその正体には気がつけない。たやすく惑わされてしまう。
 十人十色どころか万人万色。
 何者でもあり、何者でもない……それが饕餮という大妖。

『あれは気まぐれに水面に小石を放り込んでは波紋を起こし、その経過をじっと眺めているようなやつだ。下手に興味を惹いたら、死ぬまでおもちゃにされかねんぞ』

 とは銅鑼の談だ。
 まるで興味本位で蟻を踏み潰したり、虫の羽をむしりとる子どものよう。饕餮は好奇心のおもむくままに生きている。
 そんな饕餮の目下の興味は、江戸の町とそこに住まう人たちや妖らの暮らしぶりであった。饕餮いわく「これほど人と物と妖がごっちゃになって生活している場所は、他にはない。じつにおもしろい」とのこと。

 饕餮こと津田屋重次郎の姿は、隅田川の河口近くにある佃島にあった。
 彼としては此度の争乱を傍観するつもりであったのだが、その尻をせっついたのが貴祢太夫(たかねだゆう)と荼枳尼(だきに)である。
 片や女貧乏神、片や茶袋というやっかいな妖。
 夜ごと男をたぶらかしては大金をむしり取る花魁と、神出鬼没にてたまさか巡り会った者に願いを叶えるための知恵を授けてくれる尼と。

「遊ぶなとはいわぬが、何事には限度がありんす。あんまりおいたが過ぎると……」

 貴祢太夫は手にした煙管を煙草盆に、かつんと打ちつけた。

「よい漁場は大切にしませんとね。それにせっかくの仕込みを台無しにされては困ります」

 荼枳尼はやんわり諭すかのように言った。けれども全身から静かな圧がだだ漏れであった。

 このふたりににらまれたら、江戸どころか日ノ本ではとても枕を高くして寝られない。
 それに饕餮自身も、なんだかんだで江戸を気に入っていた。
 本音と建て前が入り乱れては、歪で矛盾だらけなのに成立している武家社会はじつにおもしろい。自分で腹をかっさばくことが栄誉とか、いまもって意味不明だ。
 武士たちが片意地張って生きている一方で、町人らは表向き従うふりにて裏では舌をぺろりと出しており、したたかだ。
 町には旨い物が溢れ、甘味も充実している。
 銅鑼と藤士郎の関係や、その行く末にも興味が尽きない。

「……というわけで、江戸をおまえさんに壊されては困るのだ。だからちと横槍を入れさせてもらった」

 饕餮がちょっかいを出したのは、いつ?
 それは橈骨と銅鑼が千曲屋の廊下を抜けて、江戸の海へと移動するまでの間だ。
 不思議な隧道の行く先を、饕餮が産み出した鏡の中の世界へと繋げたのである。

 当然ながら、まんまとしてやられた橈骨は怒り狂う。
 でも、その怒りを饕餮に向けている余裕はなかった。

「なっ!」

 橈骨の見上げた先にて燦然と輝くのは小太陽である。
 先ほど消えた火輪落星が頭上にあって、自分へと目がけて降ってくるではないか。

「ほれ、返すぞ」

 と饕餮。
 江戸の町を焼き払うほどの劫火、喰らえばさしもの橈骨とてただではすまない。
 だから慌てて逃げようとするも――。

「へんっ、逃がすかよ」

 にへらと笑ったのは銅鑼である。
 ぎゅんともの凄い勢いにて飛翔しては、猛然と頭から突進しての体当たり。
 これを腹にまともに喰らって、橈骨は「ぐはっ」
 荒ぶる怪獣の身がべきりと、くの字に折れた。


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