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其の四百三十七 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 狐侍と女道士
しおりを挟む月遙の唐輪髷がわずかに左右に揺れる。ひょうしに道士服の左袖がばさりと翻った。
鳥の翼が羽ばたくかのごとき動き。袖の奥より黒い何かが飛び出す。
正体はわからない。ただし尋常ならざる殺気が込められている。
狐侍はとっさにしゃがんで躱した。すかさず反撃、相手の懐に飛び込もうとする。
が、その時のことであった。
「――っ!」
やり過ごしたはずの殺気が戻ってきた。
背後から迫る剣呑な気配を察知し、さらに身を低くする。
下げた狐侍の頭上を通過したのは、五寸ほどの鉄の塊――思い切り背をそらした海老、それを四匹寄り集めたかのような形状の鉤爪にて、紐が結ばれている。
忍びの六具がうちのひとつ、鉤縄であった。
ちりり、肩のあたりに焼けたような傷みを感じ、狐侍は顔をしかめる。
どうやらわずかながらも爪先がかすったらしい。
ひゅん……。
ひゅん……。
ひゅん……。
妙に耳障りにて厭な風切り音であった。
鉤爪を振り回しながら、月遙がゆっくりと横へ移動する。
一定の間合いを保ちつつ、狐侍もこれと向き合いながら機会を伺う。
月遙は鉤縄の扱いに長けており、狙いは正確で位置取りも巧みだ。隙がない。なかなか近づけない。
紐がついているので投げても手元に戻る鉤爪は厄介だが、それでもひとつきり。やり過ごせばどうとでもなる。そう狐侍は考えたのだが、ことはそう簡単に運ばない。
月遙の投げた鉤縄を躱したところで、狐侍は接敵を試みる。ひと息に近づいては、勢いのままに小太刀にて抜き打ちにするつもりであった。
けれども、大きく踏み出そうとしたところで「はっ!」
ひとつであった剣呑な気配が、突如として四つに増えた。紐がほどけて鉤爪が分かれたのだ。これにより鉤縄が四本となった。各々がまるで生きている蛇のごとく動いては、暴れる。
信じられないことに月遙は左手のみにて、これらを自在に操っている。
一本でも近寄りがたかったのが、四本になったことで状況がより厳しくなった。
大きな釣り針のようになった鉤爪たちが閃き、宙に弧を描く。時に床を這い、天井をも削っては、唸りながら疾駆する。
下手に受けたらたちまち絡めとられて、すかさず残りの爪の餌食となるだろう。
狐侍はどうにか躱すので精一杯となった。
座敷内ではほとんど逃げ場がない。十畳ほどの空間が、たちまち月遙の支配下に置かれてしまった。
このままではすぐに追い詰められてしまう。そう判断した狐侍は、手近な襖へと駆け寄るなりそれを力任せに開け放ち、次の間へと飛び込んだ。
せっかくの無限に続く金碧障壁画の迷宮だ。一ヶ所に留まっての丁々発止なんぞはせずともよい。
逃がすまいとすぐさま月遙も追ってくるが、彼女の鉤爪が畳みや襖を引っ掻いた頃には、すでにそこに狐侍の姿はなかった。
月遙の猛攻から逃れるようにして次の間へと踏み込んだ狐侍は、一切立ち止まることなく部屋を横切ると、新たな襖を開けてさらに隣の座敷へとすでに移動していた。
ただし、奥へと逃げるのではなくて、進路を右へと折れる。
右へ、右へと渦を巻くようにして逃げ回る。
これにより出現したのは、四つの座敷がくっついた大広間であった。
場が広くなったことにより、狐侍は自由に駆け回れるようになる。
でもそれは月遙も同じこと。遮るものがほとんどなく開けた視界にて、自由に鉤縄を振り回せるし、獲物の動きも手に取るようにわかる……ばかりではない!
「おや、もう忘れたのかい? 私にはこれがあることを」
ここで月遙の右の義手が動く。
逃げる獲物へと向けられた義手、その手首が根元からだらりうな垂れあらわとなったのは銃口、仕込み短筒である。
ほんの八日ばかり前に、千住大橋にて狐侍に傷を負わせた攻撃が炸裂する。
この短筒の怖いところは、火薬の臭いがせず、発射音もしないこと。また引き金をひく動作がないので、放つ頃合いを見極めるのが非常に難しい。予備動作がないがゆえに、狐侍も不覚をとった。
だがしかし――。
「それは一度見た!」
と狐侍。
これにぴたりと照準を合わせて玉が放たれる。
狙いは正確にて、寸分たがわず狐侍の胸元へと向かう。
けれども当たる寸前に玉ははじかれた。
はじいたのは座敷の四隅を支える柱の一本であった。方々の襖を開け放ち仕切りを払うことで、大広間となった戦場。とはいえ、柱はそのままだ。
狐侍は月遙が義手を掲げたのを目にしたとたんに、射線上に柱がくる位置へと向かっていたのである。
狐侍は銃撃をしのいだ。
まんまとしてやられたと気づき、月遙の翠瞳に怒りがともる。
すかさず柱の陰から踊り出た狐侍が反撃へと転じる。
一方の月遙は銃弾を放った反動か、いささか動きに精彩を欠く。させじと左腕を振り四本の鉤爪を操るも、狐侍が右側から回り込んできた。これにより自分の右の義手が邪魔をして巧く捌けない。
慌てて上体をひねって体勢を整えようとするも、その時にはすでに眼前にまで狐侍が迫っていた。
狐侍が小太刀の鯉口を切る――。
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