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其の四百三十六 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 狸寝入り
しおりを挟むかの諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が考えたもので、いろんな事態に臨機応変に対応できる万能の陣うんぬんかんぬん。それに密教の術が加わり編み出されたのが八卦の陣である。
一歩中へと足を踏み入れたとたんに、景色が灰色に変わる。
まるで空からぶ厚い雨雲がそのまま地上に下りてきたかのよう。
たちまちちょっと先どころか、自分の足下も見えなくなり、方角もおぼつかない。ばかりか陣の外と中とでは、見た目から広さなどがまるで別物になっている。時間や距離の感覚も麻痺し、文字通り五里霧中となる。
巌然和尚に助太刀して、狂骨という恐るべき怪異と対決したときに用いた結界だが、この迷宮も似たようなものとおもわれる。
「え~と、あの時はたしか、光が次々とともっては出口へと導いてくれたんだけど……」
あいにくと巌然和尚は居らず、遠い信州の地にて。
この様子だと銅鑼の方も歓迎を受けているのだろう。あてにはできない、頼れるのは己のみ。自力で金碧障壁画の迷宮をどうにかせねばならなぬ。
「とはいえ、妖術や法術は門外漢だし。はてさて、どうしたものやら」
おそらくは銅鑼を封じ込めていた七七日忌箱と同じ……正しい手順を踏まないと抜けられない仕掛けなのだろう。
部屋の東西南北の襖に描かれた四凶の絵がきっと迷宮攻略の鍵となる。
絵の中に解決の糸口がないかと、藤士郎は検分してみる。
が、無駄であった。
気持ちの悪い絵をとっくり眺めたせいで、胸がむかついただけである。
ふつう、この手のことを題材にした地獄絵には、残虐や凄惨さ、醜悪なだけでなく、光明、救いとなる箇所がわずかながらに含まれているものだ。それにより懺悔滅罪の一助とし、日頃の行いの戒めとなる。
「だというのに、ここには絶望と苦しみしかない。地獄絵の類は、巌然さまのところでも何度か見かけたことがあるけれど、こいつは別格で強烈だよ。
誰の手筆による絵か知らないけれども、あまりにも生々し過ぎる。描いた者は性根がかなり歪んでいる。嬉々として創作に没頭する姿がありありと思い浮かぶ。相当にやばい人間だね」
職人にせよ、絵師にせよ、武人にせよ……。
その道を極めんとする者は、いささか常軌を逸するところがあるもの。
でも、だからこそ常人では成し得ぬ境地へと至れるのかもしれない。
言葉は悪いが、夢中を通り越して少々狂っている。
ここは狂気に満ちた空間だ。
「う~ん、さっぱりわからん。というか、これは理解したら逆にいけないような気がする」
襖絵を眺めるほどに、身にまとわりついてくる何かがある。
まるで泥沼に足をとられて、底へとゆっくり沈んでいくかのよう。
困ったことに、絵に慣れ親しむほどに、観続けているほどに、その感覚が強くなっていく。
これは危険な兆候だと、藤士郎は直感する。
だから――。
藤士郎はごろんと横になって、目を閉じた。
視界から絵を消し、意識の中からも排除する。
そしてそのまま……すうすうと寝息を立て始めた。
◇
迷宮内には昼も夜もなく、わずかな風も吹かず、空気は少しひんやりしている。
空腹や尿意は感じない。だが疲労だけはしんしんと降り積もり、充ちた狂気が心身をゆっくりと蝕む。
それは出口のない廃坑奥に閉じ込められたかのようにて、どれほど強靭な精神の持ち主であろうとも、やがては擦り切れ、ときには発狂することさえも……。
いったいどれほどの時間が過ぎたのであろうか。
音もなくそっと襖が開けられた。
姿をみせたのは義手の女――月遙だ。室内の様子を伺いながら入ってくる。
伏したままで、藤士郎はぴくりとも動かない。
無限に続く金碧障壁画の迷宮を彷徨い、ついには精根尽きたか。
「おもいのほかに早かったな。しかし少々興醒めだ。せっかく念入りに術を施したというのに。窮奇がずいぶんと気にかけているというから期待していたのだけれども、しょせんは太平というぬるま湯に浸かった人間ということか」
月遙は倒れている藤士郎へと近寄っていく。
しかし途中で足を止めた。ぎりぎり小太刀が届くかどうかの距離を残している。
「ちぇ」と舌打ちがした。「もう少し寄ってくれたら、いっきに片がついたのに」
むくりと起きたのは藤士郎である。
藤士郎は闇雲に足掻くことはせず、果報は寝て待てとばかりに狸寝入りを決め込んでいた。
じきに敵の方が焦れて、姿をみせたところに一太刀を浴びせようと目論んでいたのだけども、それは寸前のところで防がれた。
女道士と狐侍は無言のままでにらみ合い、互いの一挙手一投足に神経を尖らせる。
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