狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百三十五 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 金碧障壁画迷宮

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 音もなく開いた障子戸、奥からするりとのびてきた腕により藤士郎は引かれた。

「うわっ」

 慌てて振り払おうとするも、まるで蛇のごとく自身の腕に絡みついて離れない。
 まごまごしているうちに、廊下から部屋へと引きずり込まれてしまう。あっという間の出来事であった。
 引く力が存外に強い。やや乱雑に畳みの上に投げ出される。刹那、ふっと腕の拘束が解けたもので、藤士郎はとっさに手をついて転倒をまぬがれる。
 けれども顔をあげて振り向いたときには、すでに背後の障子戸は閉じられていた。

 たかが障子一枚のこと、簡単に破れる。
 はずなのだが……。

「なっ! びくともしない」

 取っ手に指をかけて、開けようとするも障子戸はぴくりともしやしない。
 ならばと藤士郎は蹴破ろうとするも、これも駄目であった。まるで岩のように硬い。蹴った足の方が痛むほどである。
 それにすぐ向こうにいるはずの銅鑼に呼びかけても返事はなし。
 気配も感じられない。
 どうやらたんに引きずり込まれただけではないらしい。

(銅鑼と分断された?)

 藤士郎が引きずり込まれた場所は、十畳ほどの座敷である。
 背後の障子戸をのぞけば、三方は襖にて仕切られているのだが、この襖のなんと豪奢なことか。金箔の地に、色とりどりの濃墨を使った華やかな金碧障壁画が施されている。
 ただし、描かれているのは戦乱や災害など……この世の地獄のような凄惨な光景にて、苦しむ人々を高見から見下ろしては、にやにやと厭らしい笑みを浮かべている巨大な人外の者の姿があった。

 北の襖に描かれていたのは、ぶよぶよした肉の塊、足が六本にて、目鼻耳口などの七孔がない。眺めているだけで肌が粟立ち怖気に襲われる。本能が存在を拒絶する。まるで反道徳的な醜類悪を寄り集めたかのような物にて、「渾敦(こんとん)」との名が記されいた。

 東の襖に描かれていたのは、縁に奇妙で不快な文様が刻まれた巨大な銅鏡の姿にて、「饕餮(とうてつ)」とある。
 貪欲を象徴するこの魔物、じつはいま江戸にいる。
 津田屋重次郎(つたやじゅうじろう)という人物に扮しては、江戸暮らしを満喫しており、いまのところは妖怪骨牌騒動以外に問題は起こしていない。

 西の襖に描かれていたのは、形は虎に似ているけれども体毛が長い。人の顔をして、四肢は虎、口元は豚のようでありながら猪のごとき牙が生えている。尾がかなり長く大蛇のごとくうねっている。全身から猛々しい気配が立ち昇っている。この荒ぶる怪獣の絵の脇には「橈骨(とうこつ)」との文字があった。

 四凶のうちの三凶の襖絵が居並ぶ。
 室内に藤士郎を引きずり込んだであろう相手の姿はない。
 背後の障子戸はびくともせず、戻ることはかなわない。

「進むしかない……か」

 藤士郎はちょっと迷ってから、北側の襖を開けた。現状を渾沌になぞらえてのことであったのだが――。

「ちっ、はずれみたいだね」

 開けた先にあったのは、同じ間取りの座敷であった。
 描かれている襖絵も同じ。ただし、最初の部屋の障子戸に相当する南側の襖には、有翼の黒銀虎の姿があった。
 空を流れる雲のごとく気ままに生きる。それを邪魔する者は誰であろうと許さない。唯我独尊な化け物「窮奇(きゅうき)」だ。

「これで四凶が揃い踏みか。しかし、こうして比べてみると銅鑼が一番見られる面相をしているね。他のはちょっと……」

 なんぞとつぶやきつつ、藤士郎は今度はその窮奇の描かれた襖を開ける。
 が、やはりその先も座敷であった。

 座敷、座敷、座敷、座敷、座敷、また座敷……。

 東西南北、どちらに進んでも延々と同じ景色が連なるばかり。
 これでは埒が開かぬと、藤士郎は畳みを引っぺがして床下に潜りこもうとするも、出来なかった。だったらと、天井の天板をはずして屋根裏へとあがろうとするも、こちらも駄目であった。肝心の天板が動かない。

「くそっ、まるで迷宮だ。おそらくはあの義手の女の妖術……巌然さまの八卦の陣みたいなものだろうけど」

 だとすれば闇雲に歩き回っても無駄だ。迷宮を抜けるにはきちんと段取りを踏む必要がある。
 藤士郎はいったん頭を冷やすべく、その場にて座り込み胡坐をかいた。


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