狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百三十 狐侍、ただいま逃亡中。二十二日目 門出の打ち火

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 刻は暮れ六つ。
 夕焼けの茜色に染まる世界に、しんしんと夜の帳が降りてくるさなか――。
 かちり、かちりと音を立て、小さな火花が興る。
 鳴らしたのはおみつである。手にした火打石による打ち火だ。
 これから決戦へと赴く、男たちの安全と武運を祈願しての景気づけ。
 けれども威勢とは裏腹に、おみつの瞳からは憂いが拭いきれない。

「いってらっしゃい。どうかご無事で……」

 引き留めたいのを堪え、気丈にもそう言われて藤士郎と銅鑼は送り出された。
 ここで気の利いた別れの言葉のひとつでも口にできればよかったのだけれども、生憎と藤士郎にそんな甲斐性はない。
 とんだ朴念仁にて、これには銅鑼も「あちゃあ」と少々呆れ顔であった。

  ◇

 藤士郎と銅鑼は鐘ヶ淵より出立し、河童たちの先導にて隅田川を下って小舟に揺られることしばし。
 回向院近くにて舟を岸につけ、両国橋を渡る。
 いつもであれば、夕方でもまだまだ人の往来が盛んだというのに、橋の上は閑散としていた。
 原因は、ここのところの世情の不安だ。
 千両首目当てに大量に流入した破落戸や牢人どものせいで、江戸の治安は急激に悪化している。そのせいもあって近頃ではみな、日が暮れる前に家路を急ぐ。
 おかげで江戸の夜はいっとうしみったれて、暗くなるばかり。
 まことに迷惑な連中である。
 そんな連中だが、ここにくるまで藤士郎たちはちっとも見かけていない。
 なぜなら現在、連中は日本橋にある札差の千曲屋へと続々集結しているからだ。

 とてもではないが四十九日も逃げ回ってはいられない。
 いや、妖たちが手を貸してくれているので、その気になれば逃げきれなくもない。
 けれども、自身の安全と引き換えに江戸の民草たちが危険に晒される。それすなわち藤士郎にとって大切な人たちや場所が害されかねないということ。
 それをみすみす看過できるほど、藤士郎の性根は腐っちゃいない。

 いざ討ち入りと決めた藤士郎たち。
 だが、その前段階として行ったのは猫又芸者らを使って「賞金首が今宵、千曲屋にあらわれるらしい」という噂を方々にばら撒くこと。
 では、どうしてわざわざ騒ぎを大きくするような真似をしたのかといえば、さる御方が「自分も一枚かませろ」と言い出したことが事の発端である。
 藤士郎としてはいつものごとく、こっそり忍び込んでけりをつけよう……とか目論んでいた。
 けれども、耳聡い御方が討ち入り話を知ってしまう。前々から千曲屋に対しては、想うところがあったらしい。
 その御方とは、吉原遊郭は大黒屋に所属する花魁の貴祢太夫である。
 正体は女貧乏神にて、夜の世界を中心にして男どもから金をむしり取っているのだけれども、ここのところの騒動のせいで商売あがったり。
 彼女は自分の商いの邪魔をされることや、不躾に庭を荒らされることをとても厭う。
 ちょっとぐらいのおいたであれば目くじらを立てないが、さすがに此度の千曲屋の暴挙は見過ごせないと、すっかりお冠であった。ちょろちょろ動き回っている義手の女や、その背後にいる黒幕も気に喰わない。

 ゆえに、藤士郎が敵の本丸へと攻め込んで決着をつけるという話を耳にするなり、全面的に協力すると申し出たばかりか、「ついででありんす、まとめてごみを片付けてしまいましょう」と言い出したから、さぁ、たいへん!
 掃除の基本は手早くまとめてぽいっ、である。
 藤士郎たちの討ち入りを後押しする形にて手勢を突入させての、大喧嘩としゃれ込もうという算段だ。
 どれだけの人数を揃えるのかは知らないが、あの貴祢太夫がひと声かけるのだから、相当な数にのぼることになるのだろう。
 たぶん下手な打ち壊しや暴動よりも大袈裟になるかもしれない。
 町ぐるみの大喧嘩祭りになるは必定。
 そうなれば、いかに腰の重い奉行所も出張ってくるはず……
 でも、それすらもが貴祢太夫の腹の内にて。

「お役人の中にも有志はおられます。みながみな、見て見ぬふりにて腐っているわけじゃありやせん」

 権力との結びつき。金に明かせての悪事の揉み消し。
 悪徳商人の意を受けては、その都度、罪科逃れに手を貸す不埒な存在。
 ときに横暴に、ときに理不尽に、ときに道理を曲げて。千曲屋文左衛門に煮え湯を飲まされた者たちは、けっして少なくない。
 迎合する輩が増え続ける一方で、それに憤り忸怩たる想いを抱く者も着実に増えている。
 それらが、藤士郎たちの討ち入りに合わせて蜂起する手筈となっているというから、恐れ入った。
 役人の有志らは騒ぎを鎮める名目にて現場に介入し、勢いのままに千曲屋に突入しては、どさくさに紛れて検めを実施し、あれこれと探っては悪事の証拠を漁る所存である。
 いわば役人たちによる打ち壊しのようなもの。
 千曲屋はきっと大混乱に陥る事であろう。
 はてさて、どうなることやら……。

 なんぞと考えながら藤士郎が銅鑼を連れて橋を渡っていると、前方の欄干に背を預けているふたつの人影があった。
 ふたりともに狐の面なんぞを被っている。王子稲荷の界隈で売られている面だ。
 どちらも顔こそは隠れているが、藤士郎には見覚えのある風貌であった。
 片やがっちりとした岩のような体躯をしており、いかにも屈強な武士然としていおり、もう一方は杖をついているもので、すぐにその正体がわかった。

「左馬之助……、それに桑名殿まで」

 うっかり藤士郎がふたりの名を口にすると、とたんに「こらっ、せっかく正体を隠しているのに、名前を言うんじゃない!」と左馬之助にどやされた。


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