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其の四百二十八 狐侍、ただいま逃亡中。十七日目
しおりを挟む寝返りをしたひょうしに、額にのせていた濡れ手拭いが脇へと落ちた。
ずきん――鈍痛にて目を覚ます。
「うぅ」
自分の発した呻き声が老人のようにかすれていることに驚く。喉が渇いているせいだろう。
薄ぼんやりとしている意識の中で視線を彷徨わす。藤士郎がまず探したのは愛刀の小太刀であった。その烏丸(からすまる)は枕元に置かれており無事なようで安堵する。
けれども次の瞬間に藤士郎は「ぎょっ!」として、眠気はどこぞに吹き飛んでしまった。
なぜなら小太刀に並べて置かれていた小箱、七七日忌箱が開封された状態であったからだ。
(箱が開いている……中にいたはずの銅鑼はどこに?)
慌てて上体を起こそうとする藤士郎であったが、たちまち「ぐぬっ」と苦悶にて背を丸めることになった。
左脇腹に受けた傷が先ほどよりもいっそう強く痛んだからだ。
だが、その段になって自分がきちんと治療されていることを知る。
腹に木綿の包帯がしっかり巻かれている。どうやら傷も縫われているようだ。
川に落ちた小箱を追いかけて自分も飛び込んだのまでは覚えている。だが、そこから先の記憶が曖昧にて。
「ひょっとしたら河童たちが助けてくれたのか……」
事実はその通りなのだけれども、ここで藤士郎はまたしても驚かされることになる。
なぜなら「よかった藤士郎さま、気がつかれたのですね」と声をかけたのが、よく見知った茶屋の娘であったから。
おみつであった。盥の水を入れ換えるために少し席をはずしていたのを戻ってきたのだ。
「どうしてここにおみつちゃんが? それにこの箱、銅鑼は? ねえ、銅鑼はどうしたんだい?」
藤士郎は矢継ぎ早やに気になっていることを口にした。
「慌てなくてもちゃんとお教えしますから、あまり興奮しないでください。せっかく塞がった傷がまた開いてしまいますよ」
おみつはそれをやんわりなだめる。
そして藤士郎が気を失っている間のことを語って聞かせた。
◇
得子のところで、藤士郎が撃たれて負傷したことを知ったおみつは、みずから介抱役に志願した。
「なぜ?」
と、問われたらちょっと返答に困るのだけれども、とにもかくにも見過ごせないと強く思ったのだからしょうがない。
だが火急の刻、ちょうど人の手を借りたいところであったので、信用のおける人物の申し出はとてもありがたい。
かくしておみつはすぐに藤士郎が担ぎ込まれた鐘ヶ淵の家へと案内された。なお怪我の手当に必要な薬や品は、猫又芸者らが手配して届けてくれた。
江戸ではちゃんとした医者に診てもらうと、とんでもないお金がかかる。それこそ病や怪我を治して散財し、乞食に身をやつすなんて話もあるほど。親の病のために娘が身売りするなんて酷い話もある。
もちろん「医は仁術なり」と提唱し、がんばってくれている医者もいるけれども、数は少なく、医者側の持ち出しばかりが増えるせいで、いつもかつかつ。それゆえに出来る治療も限られている。
だから庶民はめったなことでは医者の世話にはならない。たいていのことは自分で賄う。ましてやおみつのところは祖父とのふたり暮らしにて、健康には人一倍気を使っており、簡単な縫合ぐらいならばちょちょいのちょいであった。
さすがに本格的な金創治療は無理だが、幸いなことに藤士郎が受けた傷は浅かった。弾がかすっただけにて、傷は骨にも達しておらず、肉もさほど抉れていなかったので、素人に毛の生えた程度の治療でもどうにかなった。
かくして治療を終え、眠る藤士郎をかいがいしく介抱していたおみつであったが、ふと気になったのが枕元に置かれている奇妙な小箱の存在。
鐘ヶ淵の家に出入りしている者らの話では、この中に銅鑼が封じ込められているという。開けるのには、いくつもの手順を踏まねばならぬらしく、「我こそは」と知恵自慢の者が挑んでみたものの、恐ろしく難解にて、みなてんで歯がたたずとのこと。
なんとも奇天烈な話だが、それはいまに始まったことではないので、いったん脇へと寄せておくとして……。
「これって箱根細工のからくり箱みたいなものよねえ。ふ~ん、どれどれ」
なにげに手に取ったおみつが、箱を手の中であれこれこねまわす。
ずっと介抱のし通しにて、ちょっとした息抜きのつもりであったのだが、ここでおみつの隠された天稟が発揮されることになろうとは、お釈迦様でもご存知なかったことであろう。
七七日忌箱には四十九もの仕掛けが施されており、正しい手順を踏まないと開けられないようになっている。
最初の五つや六つぐらいまでならば、誰でも解けたのだが、そこから先がまるで進めない。
だというのに、おみつときたら次々とからくりを突破していくではないか。
これにはたまさかその場面を目撃することになった猫又や河童らも「えぇーっ!」と驚きを禁じ得ない。
じつはおみつ……からくり細工職人泣かせとして、その界隈ではちょっと名の知られた存在であった。
たまの休日、仲のいい娘たちと連れ立って、ふらりと立ち寄った小物屋などの店先に置かれているからくり細工の箱があれば、ほんの手慰みにてちょちょいと開けてしまうのだもの。それもほんのわずかな時間で。
五や十段階程度のからくりならば、誰でも時間さえかければ開けられるだろう。
だがそれが二十や三十と複雑になれば、かなり難しい。職人なりの創意工夫も施されてある。知恵比べみたいなもの。
それが茶屋の小娘ごときにあっさり開けられるとあっては、職人たちも黙っちゃいられない。職人の矜持にかけても、小娘をぎゃふんと云わせないと気がすまない。
かくしておみつの預かり知らぬところで、一方的に敵視されてしまったのだけれども、結果は職人たちの惨敗であった。
こぞって趣向を凝らした逸品にて挑んだのだが、そのことごとくが開けられてしまったんだとか……。
周囲が目をむいているうちにも、十本の指を器用に素早く動かしては、かしゃかしゃかしゃ。
おみつは黙々とからくりを解除していく。
そうして作業すること四半刻、ついに最後のからくりが解除されて、箱の蓋がぱかんと開かれ、中から有翼の黒銀虎が飛び出してきたという次第であった。
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