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其の四百二十六 狐侍、ただいま逃亡中。十四日目 裏
しおりを挟む知念寺のいきなりの閉門から、十四日ばかりが過ぎた頃のことである。
お沙汰はまだ解けていない。
そのため参拝客らで賑わっていた知念寺の門前通りは、すっかり火が消えてしまったかのよう。
当初は「きっと何かの間違いだ。いずれ巌然和尚さまが戻られたら……」と楽観視していた地元の者たちも、七日が過ぎ、十日も過ぎればさすがに焦りの色が見え始めた。
なにせ、その肝心の和尚さまがいっこうに戻ってこない。
寺の小坊主の話では信州の方に恐ろしい妖が出たとかで、和尚さまは主な弟子たちをひき連れて調伏に出向いているとのこと。だが敵もさるもの、かなり手強い相手らしく、もうしばらくは帰れそうにないそうな。
だから寺の留守を預かる者たちも方々の伝手を頼ってはかけ合い、どうにかして閉門を解いてもらおうとしているらしいのだが、こんな時に限って頼りになりそうな縁者たちがこぞって江戸を離れているというのだから、なんとも間の悪いこと。
人は喰わねば生きていけない。
そのための日々のたつきなのだが、寺がこのありさまではおまんまの食い上げだ。特に門前通りに腰をおろして商いをしている者にとって、事態はかなり深刻である。
そうそうに見切りをつけて他所へと去る者、巌然和尚を慕い信じ耐えて待つことを選ぶ者、いい機会だからと開き直って骨休めをする者、自棄を起こして飲んだくれている者、いずれ風向きも変わるだろうと日雇い仕事で凌ぐ者などなど。
おみつのところの茶屋も例外ではなかった。
この事態を受けておみつは祖父ともども、しばらくの間、懇意にしている米問屋の口利にてとある菓子屋の手伝いをして、当座をしのいでいる。
そんなおみつの耳に不穏な噂が聞こえてきた。耳に入れたのは取引にて店に出入りしている者であった。
近頃、江戸市中で牢人者や破落戸を見かけることが増えている。町の様子が何やらおかしい。不穏な気配が蠢いている。そのことにはおみつも薄々勘づいていた。
だから若い娘たちは、夜はもとより日中でもあまりひとりで表を出歩かないように用心している。
「えっ! 藤士郎さまが千両首? そんな、まさか……」
町をうろつく連中のお目当てが、じつは自分の知っている若侍だと知って、おみつは飛び上がらんばかりに驚いた。
そういえば最後に藤士郎の顔を見たのはいつであったか。おみつはあらためて思い返してみる。
最後に会ったのは確か……茶屋に唐輪髷の異国風の麗人が訪れた日であったはず。
おもえばあれを最後の賑わいにして、あれよあれよという間に事態が悪い方へと転がっていった。
にしても、何がどうしてあの人畜無害の若侍がお尋ね者になっているのか?
この話を聞いてから、おみつはすっかり気もそぞろ。仕事こそしくじらないけど、それ以外はさっぱりとなった。
見かねた祖父が「そんなに気になるのだったら、一度、くらやみ坂のお屋敷の様子をみてきたらどうだ?」と言った。
◇
祖父の勧めもあり、手土産に団子をたんとこさえて九坂邸を訪れようとしたおみつであったが、近所まで来たところでいきなり何者かに袖をぐいと引かれて、物陰へと連れ込まれた。口も手で塞がれてしまう。
てっきり性質の悪い破落戸の仕業かとおもったおみつは、おもわず悲鳴をあげそうになるも、寸前のところで留まったのは、相手が辰巳芸者の姐さんだったからである。
菊屋のちとせであった。用心棒代わりに付き人の箱屋をふたり連れている。
深川の芸者衆が九坂邸にある伯天流の道場を踊りの稽古場として、ときおり借りていることはおみつも知っていた。それが縁となって稽古帰りに茶屋の方へとちょくちょく立ち寄っていたもので、おみつとちとせのふたりは満更知らぬ仲でなし。
「静かに、いいね?」
ちとせの言葉におみつがこくりとうなづいたところで、口にかぶせられていた手がはずされた。
「驚かせてすまないねえ。でも、あのまま進んでいたら、面倒な連中に絡まれていたかもしれないから」
「面倒な連中?」
「その様子だと、おみつちゃんも例の話を耳にして心配した口だろう」
「はい。でもその話って本当なんですか? 千両首とか、富くじじゃああるまし」
「だよねえ。あたいもそう思うよ。でも残念ながら本当なんだ。やったのは千曲屋さ。何かときな臭い噂がつきまとう札差でね。
じつはここだけの話、以前に近藤さまのお役目絡みで九坂さまが手を貸したことがあったようで、そのせいで目をつけられちまったみたいなんだ」
藤士郎はなんだかんだで人が好い。
そのために、ちょくちょく巌然和尚や友人知人らのために奔走している。
内容までは詳しく知らないが、誰かのために身を粉にして走り回っているのが、いかにも藤士郎らしいとおみつは好ましく思っていたのだけれども、今回はそれがおもわぬ災禍を招いてしまったらしい。
「最近はずいぶんと減ったんだけど、まだ屋敷の周囲をうろついている輩がいてね。どいつもこいつも金に目が眩んだろくでなしども、ふらふら近寄ると危ないんだ。
だからおみつちゃんはこのままお帰り……と言ったところで、その様子じゃあ無理そうだね。やれやれ、なんだかんだであんたも江戸の女なんだね。はい、そうですかと引き下がれないって、目が言ってるよ」
ため息をついたちとせは「しょうがない」と肩をすくめてみせる。
「とりあえずついてきな。いつまでもこんなところで屯していたら、連中に勘づかれる。ああいう手合いは鼻だけは妙に利きやがるからね。裏からこっそり屋敷に入れるから案内してあげる。詳しい話はそれからだよ」
ちょくちょく屋敷にお邪魔しているおかげで、いまやあの周辺は自分たちの庭みたいなものだと、ちとせは豪語する。
その言葉に偽りはなく、おみつたちは誰に見咎められることもなく、あっさり九坂邸へと入れた。
するとそこには複数の者らが、同じくこっそり出入りしているではないか。
聞けばみな藤士郎に世話になったという者たち。
これも日頃の行い、人徳の賜物である。
あらためて藤士郎のことを見直すおみつであったが、いざ、現状について詳しい話を聞こうという段になって凶報が飛び込んできた。
それは九坂藤士郎が千住大橋の上で撃たれて、川に落ちたというものであった。
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