422 / 483
其の四百二十二 狐侍、ただいま逃亡中。十三日目 前編
しおりを挟む浅草寺界隈を横目に、さらに隅田川をのぼっていくと、町の喧騒が遠のき寂しい場所にでる。
小塚原の仕置き所――刑場のある処だ。
江戸の刑場といえば、南の鈴ヶ森、北の小塚原と云われるほどに有名にて、数多の罪人たちが怨嗟を吐きながら命を落としてきた。
累々と積み重ねられる死。
だからなのか、この地を骨ヶ原なんぞと呼ぶ者もいる。
小塚原の刑場では、打ち首獄門のみならず、磔(はりつけ)に火刑などが実施される。
ばかりか腑分けに試し斬りなども行われる。
死体はだいたいが野ざらし、よくて土を簡単にかぶせる程度にてきちんと埋葬されることはない。
そのため夏場になると辺り一帯に腐臭が漂い、臭いにつられて集まる野犬や鴉(からす)に鼬(いたち)などがあちこちをほじくり返しては死体を食い散らかすもので、まるで地獄のような有り様であったという。
だが、近頃ではそこまで酷くはない。
あいかわらず陰気で不気味な土地だが、さすがに見かねた弟誉義観(ていよぎかん)なる僧侶が刑場隣にお堂を建てて供養を始めたのを皮切りにして、それなりに供養がされるようになった。
とはいえ、この地に染みついた死の気配を払拭するには至らず。独特の雰囲気を醸し出し続けている。
そんな界隈を頻繁に行き来しては、例の義手の女が北の千住大橋を渡っているという。
このことを掴んできたのは高祢太夫の意を受けて、千曲屋を見張っている者のうちのひとりであった。
話を聞いた藤士郎は、すぐにこれを罠――義手の女の誘いだと看破する。
義手の女はかなり目立つ容姿をしており、ただ町中を歩くだけでも話題になるほど。
そんなのが、わざわざ寂しい場所をうろついている。
あまりにもあからさまであろう。
(とはいえ好機であることも事実……)
現在は高祢太夫の庇護の下、吉原は大黒屋に匿われているが、さすがにこのままやり過ごせるなんぞという甘い考えは、藤士郎も持っていない。じきに風向きがかわって、ここにも居られなくなるだろう。
となれば、いっそのこと自分から風を吹かせた方がいい。どのみち流れに身を任せるしかないのであれば、せめて飛び込む時機は自分で決めるべきであろう。さすれば気構えが段違いにて、覚悟を持って事態に挑める。
悩んだ末に藤士郎はあえて義手の女の誘いに乗ることにした。
◇
奥州は日光道中の江戸の玄関口ともいえる場所が千十大橋だ。
その橋の下のたもとに、編み笠を目深にかぶった藤士郎の姿があった。
吉原から小舟で隅田川を遡り、ここまでやってきた。
時刻は昼八つにて、お天道さまが真上を少しばかり過ぎた頃。
義手の女に接触するのであれば、帰路の人気(ひとけ)の少ない夕刻を狙うほうが確実なのであろうが、それだとたぶん先方にも読まれている。
だからこそ裏をかく。朝駆けならぬ昼駆けを敢行する。
日中の千住大橋は人の往来が盛んだ。周囲に人の目がある以上、双方ともにあまりめったなことは出来ないはず。
人混みにまぎれていっきに距離をつめて、銅鑼が閉じ込められているという箱を奪う。
義手の女がいつもこれ見よがしに箱を持ち歩いているのは、すでに確認ずみにて。
目を閉じ、藤士郎が心を鎮めて精神統一をしていると、そこに音もなく近づく男がいた。高祢太夫の命を受けて、藤士郎に協力してくれている者たちのうちのひとりである。
「九坂さま、女がきやした。じきに小塚原を抜けやす」
藤士郎は瞼をあけてうなづく。
「わかった。では手配通りに頼む」
「へい、では」
男は来た時と同様に音もなく去っていった。
再びひとりとなったところで、藤士郎は腰の小太刀の状態を確認する。
逃亡中に戦いが続いたもので切れ味が幾分落ちていたが、それも大黒屋に匿われているうちに研ぎを受けられたので、すでに解消されている。
抜いて軽くひと振り、感触を確かめてから鞘へと戻す。
襲撃の手順は簡単だ。
女が橋の真ん中あたりに来たところで、橋の両側を手勢で塞ぎ袋の鼠にする。あとはひと息に距離を詰めて女に当て身を食らわせ、駕籠に押し込めて運び去るばかり。
人攫いを生業としている連中がよくやる手だ。人混みは必ずしも安全とは限らない。あれでけっこう死角が多い。心の間隙も生じやすく、それだけつけ入りやすい。
あまり褒められたことではないが、今回はそれを真似させてもらう。
「さてと、そろそろ行くか」
腰をあげかけた藤士郎、そこで目についたのが足下に落ちていた小石である。
浮かしかけた腰を戻し、藤士郎は小石を三つばかり拾って懐にねじ込んだ。いざという時の投擲用だ。棒手裏剣などは扱いやすい反面、見かけよりもずっと重たいし、形が整っている分だけ、じつは刀ではじきやすいのだ。
その点、不揃いの石は投げるのにこつがいるものの、防ぎにくい。受けたときの衝撃はおもいのほかに大きく、当たり所によっては死ぬこともある。こと実戦では石礫は侮れない。なにより元手がただなのがありがたい。
すっくと立ち上がった藤士郎は、橋の上へと向かって歩き出した。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

高槻鈍牛
月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。
表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。
数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。
そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。
あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、
荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。
京から西国へと通じる玄関口。
高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。
あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと!
「信長の首をとってこい」
酒の上での戯言。
なのにこれを真に受けた青年。
とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。
ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。
何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。
気はやさしくて力持ち。
真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。
いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。
しかしそうは問屋が卸さなかった。
各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。
そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。
なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる