狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
421 / 483

其の四百二十一 狐侍、ただいま逃亡中。十一日目

しおりを挟む
 
「ふぅ、いい湯だ。生き返る」

 逃亡中にもかかわらず、のんびり広い湯舟を独占していたのは藤士郎である。
 ひさしぶりの湯だ。命の洗濯にて生き返る。潜伏中も濡らした手ぬぐいでこまめに汗は拭っていたが、風呂好きの江戸っ子としてはかなり物足りない。
 湯の中で手足をのばし、「う~ん」と大きくのびをすれば、血の巡りが良くなってたちまち凝り固まった筋肉がほぐれていく。
 日に日に厳しくなる追捕の手、目まぐるしく変化する状況、疲弊する身体、すり減っていく心……。
 そんな渦中にあって、よもや極楽を味わえるとはおもわなかった。

 あれは三日前のことだ。
 逃亡生活を始めてから、七日から八日目をまたいで受けた夜討ちは散々であった。
 寝床にしていた小舟に火矢を放たれ、追われて逃げた先では多勢による待ち伏せを受けた。その包囲をどうにか切り抜けたものの、大立ち回りをしたせいで居所がばれてしまい、これを聞きつけて千両首を狙う輩がわらわらと群がってきた。
 しばらく奮闘するも斬り伏せたはしから、倍に増えていく。

「こりゃあ、かなわん」

 藤士郎はすたこら逃げ出したのだけれども、欲に目が眩んだ連中はとてもしつこかった。
 隅田川沿いをひたすら上流目指して、藤士郎は夜通し駆けに駆け、ときに身を潜めてやり過ごし、また駆けた。
 追いかけっこは朝方まで続き、どうにか連中を撒いた時には、藤士郎も眠気と疲労でふらふら。
 だが、それで終わりではなかった。
 陽が昇ったら昇ったで動き出す者たちも大勢いる。
 空が白じみだした明け六つの頃、町々の木戸が一斉に開き、人々の往来が始まるとともに、追いかけっこがまた始まった。

 じつは昼間の逃走劇の方が夜よりずっときつい。
 人目があり、身を潜めるのに都合のいい暗がりもなく、かつ木戸が開いているから追跡者たちは自由に町中を徘徊できるし、なにより妖たちの助力を得にくいのが困りもの。
 結局、藤士郎は終日、自力にて逃げ回ることを余儀なくされた。
 襲撃は昼夜を問わず。
 さしもの藤士郎も疲労困憊となり、「もう、これ以上は動けない」と弱音を吐いたものの、捨てる神あれば拾う神ありとはよく云ったもの。

 ちょいちょいと手招きにて匿ってくれたのは、四郎兵衛会所に屯(たむろ)する男たち。
 四郎兵衛会所は吉原の玄関口にある屯所である。
 逃げ回るうちに、いつの間にやら藤士郎は日本堤沿いを越えて、吉原の手前にある衣紋坂(えもんざか)付近にまで来ていたようだ。
 では、吉原遊郭の秩序を守る鬼の番人たちが、どうして助けてくれたのか?
 それは貴祢太夫(たかねだゆう)の意向であった。

 貴祢太夫は大黒屋の花魁にて、その正体は貧乏神である。
 これまでの貧乏神のように、個人にとり憑いてはちまちま散財させるのではなくて、美しき花魁となっては御大尽どもからごっそり金をせしめるという、革新的な集金方法を確立した新進気鋭の女神さま。
 彼女のところには、男と金に付随して市井のいろんな噂話も転がり込んでくる。
 当然ながら、九坂藤士郎が性質の悪い遊戯の生餌にされたことも聞き及んでいた。
 狐侍とはまんざら知らぬ仲でなし。それに貴祢太夫としても、此度の騒動にてちょいと気になることがある。
 だから手を差し伸べたとのことであったのだけれども――。

「……にしても、義手の女に続いて目の覚めるような美小姓かい。まったく、次から次へと、どうしてこう」

 湯煙の中、藤士郎は唇を尖らせる。
 貴祢太夫から便宜をはかってやる代わりに、その小姓の正体を探れと申しつけられた。
 逃亡中の身なのに、とんだ無茶ぶりである。
 その小姓とやらは千曲屋にも我が物顔で出入りをしており、義手の女もその小姓の手下らしい。
 どうやらただの人間ではないらしく、貴祢太夫としては「人の庭先で好き勝手をされては困る」とのことであった。

「まぁ、どのみち銅鑼を助けないといけないから、義手の女とは対峙することになるんだけどね。……にしても、その小姓っていったい何者なのかしらん?」

 まがりなりにも神の一柱が気にするということは、それすなわち只者ではないということ。
 ここにきて人の世だけでなく、妖の世もざわついてきた。いや、あるいは最初からふたつは結びついていたのかもしれない。
 現状を打開するには、藤士郎だけでは手に余る。
 ここはやはり銅鑼の奪還が急務であろう。
 そのための下調べや段取りは、いま高祢太夫の手の者らがやってくれている。おっつけ義手の女の所在も掴めるだろう。
 だからいまは存分に英気を養い、来たるべき刻に備えるばかり。
 あれこれ考えているうちに、ややのぼせてきた。
 藤士郎は立ち上がり湯舟を出た。


しおりを挟む
感想 138

あなたにおすすめの小説

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

御様御用、白雪

月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。 首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。 人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。 それは剣の道にあらず。 剣術にあらず。 しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。 まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。 脈々と受け継がれた狂気の血と技。 その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、 ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。 斬って、斬って、斬って。 ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。 幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。 そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。 あったのは斬る者と斬られる者。 ただそれだけ。

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する

川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。 村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...