狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百二十一 狐侍、ただいま逃亡中。十一日目

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「ふぅ、いい湯だ。生き返る」

 逃亡中にもかかわらず、のんびり広い湯舟を独占していたのは藤士郎である。
 ひさしぶりの湯だ。命の洗濯にて生き返る。潜伏中も濡らした手ぬぐいでこまめに汗は拭っていたが、風呂好きの江戸っ子としてはかなり物足りない。
 湯の中で手足をのばし、「う~ん」と大きくのびをすれば、血の巡りが良くなってたちまち凝り固まった筋肉がほぐれていく。
 日に日に厳しくなる追捕の手、目まぐるしく変化する状況、疲弊する身体、すり減っていく心……。
 そんな渦中にあって、よもや極楽を味わえるとはおもわなかった。

 あれは三日前のことだ。
 逃亡生活を始めてから、七日から八日目をまたいで受けた夜討ちは散々であった。
 寝床にしていた小舟に火矢を放たれ、追われて逃げた先では多勢による待ち伏せを受けた。その包囲をどうにか切り抜けたものの、大立ち回りをしたせいで居所がばれてしまい、これを聞きつけて千両首を狙う輩がわらわらと群がってきた。
 しばらく奮闘するも斬り伏せたはしから、倍に増えていく。

「こりゃあ、かなわん」

 藤士郎はすたこら逃げ出したのだけれども、欲に目が眩んだ連中はとてもしつこかった。
 隅田川沿いをひたすら上流目指して、藤士郎は夜通し駆けに駆け、ときに身を潜めてやり過ごし、また駆けた。
 追いかけっこは朝方まで続き、どうにか連中を撒いた時には、藤士郎も眠気と疲労でふらふら。
 だが、それで終わりではなかった。
 陽が昇ったら昇ったで動き出す者たちも大勢いる。
 空が白じみだした明け六つの頃、町々の木戸が一斉に開き、人々の往来が始まるとともに、追いかけっこがまた始まった。

 じつは昼間の逃走劇の方が夜よりずっときつい。
 人目があり、身を潜めるのに都合のいい暗がりもなく、かつ木戸が開いているから追跡者たちは自由に町中を徘徊できるし、なにより妖たちの助力を得にくいのが困りもの。
 結局、藤士郎は終日、自力にて逃げ回ることを余儀なくされた。
 襲撃は昼夜を問わず。
 さしもの藤士郎も疲労困憊となり、「もう、これ以上は動けない」と弱音を吐いたものの、捨てる神あれば拾う神ありとはよく云ったもの。

 ちょいちょいと手招きにて匿ってくれたのは、四郎兵衛会所に屯(たむろ)する男たち。
 四郎兵衛会所は吉原の玄関口にある屯所である。
 逃げ回るうちに、いつの間にやら藤士郎は日本堤沿いを越えて、吉原の手前にある衣紋坂(えもんざか)付近にまで来ていたようだ。
 では、吉原遊郭の秩序を守る鬼の番人たちが、どうして助けてくれたのか?
 それは貴祢太夫(たかねだゆう)の意向であった。

 貴祢太夫は大黒屋の花魁にて、その正体は貧乏神である。
 これまでの貧乏神のように、個人にとり憑いてはちまちま散財させるのではなくて、美しき花魁となっては御大尽どもからごっそり金をせしめるという、革新的な集金方法を確立した新進気鋭の女神さま。
 彼女のところには、男と金に付随して市井のいろんな噂話も転がり込んでくる。
 当然ながら、九坂藤士郎が性質の悪い遊戯の生餌にされたことも聞き及んでいた。
 狐侍とはまんざら知らぬ仲でなし。それに貴祢太夫としても、此度の騒動にてちょいと気になることがある。
 だから手を差し伸べたとのことであったのだけれども――。

「……にしても、義手の女に続いて目の覚めるような美小姓かい。まったく、次から次へと、どうしてこう」

 湯煙の中、藤士郎は唇を尖らせる。
 貴祢太夫から便宜をはかってやる代わりに、その小姓の正体を探れと申しつけられた。
 逃亡中の身なのに、とんだ無茶ぶりである。
 その小姓とやらは千曲屋にも我が物顔で出入りをしており、義手の女もその小姓の手下らしい。
 どうやらただの人間ではないらしく、貴祢太夫としては「人の庭先で好き勝手をされては困る」とのことであった。

「まぁ、どのみち銅鑼を助けないといけないから、義手の女とは対峙することになるんだけどね。……にしても、その小姓っていったい何者なのかしらん?」

 まがりなりにも神の一柱が気にするということは、それすなわち只者ではないということ。
 ここにきて人の世だけでなく、妖の世もざわついてきた。いや、あるいは最初からふたつは結びついていたのかもしれない。
 現状を打開するには、藤士郎だけでは手に余る。
 ここはやはり銅鑼の奪還が急務であろう。
 そのための下調べや段取りは、いま高祢太夫の手の者らがやってくれている。おっつけ義手の女の所在も掴めるだろう。
 だからいまは存分に英気を養い、来たるべき刻に備えるばかり。
 あれこれ考えているうちに、ややのぼせてきた。
 藤士郎は立ち上がり湯舟を出た。


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