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其の四百十六 侵犯 前編
しおりを挟む藤士郎を物陰の暗がりに手招きした元締めの側仕えの女は、挨拶もそこそこに言った。
「そのご様子……もしかして、すでに何者かに襲われましたか?」
「なっ! どうしてそれを……」
「いえね、じつはうちの領分を侵した粗忽者がおりまして。そいつらが九坂さまの首に懸賞金をかけて狙っていると耳にしたもので、ひと言ご忠告をと、うちの頭が」
「領分? 粗忽者? いったいそれはどういう意味なんだい」
「どうもこうも、此度の一件、まずうちはまったく関与しておりません。困ったことに無粋な輩が仁義を通さずに勝手をしたんですよ」
いろんな者が集まる江戸は日ノ本一の賑わいをみせている。
だが、光が差すほどに濃くなるのが闇というもの。
表の稼業が繁盛すればするほどに、人の欲望は渦巻き、裏の稼業の需要も高まる。
これはもう人の業みたいなものでしょうがない。
そして表には表の秩序があり、裏もまたしかり。
斬ったはったの無法の世界でも、相応にとおすべき筋はある。それは苛烈な競争とこれまでに流された多くの血の上に築かれた、暗黙の掟のようなもの。
いかに外道が跳梁跋扈する闇の中とて、なんでもありとは違うのだ。
江戸には江戸の守るべき流儀がある。
で――今回、突如として藤士郎の首にかけられた千両もの大枚。
出処は千曲屋にて、これを先導したのは義手の女だという。
蔵に黄金が唸っている札差の千曲屋文左衛門にとっては、はした金のようなもの。
だが、そのはした金をぽんと出し、実物を用意し、彼の名前で報酬を約束したからこそ、千両首なんていうふざけたことが成立したという次第。
もしもこれを他の者がやれば、たんなる与太話としてきっと誰も相手にしなかったことであろう。
ふざけた話は他にもあった。
なんと! 千両首には期日が設けられており、今宵より四十九日の間、藤士郎が逃げのび生き残るかどうかが、賭けの対象になっているという。
参加しているのは千曲屋と誼を結んでいる者たち。そして賭けるのはたんなる金子から、秘蔵の宝物、商いの種、飼っている美童や美姫、毛並みの優れた名馬、各種利権などなど。
それこそ金に換算したら、数万どころか十万両をも越えるかもしれないほどの、とてつもない額が動く。
賭け方も様々にて、単純な生死を当てるもの、いついつまでと生き残る日にちを数えるもの、藤士郎が何人斬るか、どこの場所で果てるか、など多岐に渡り趣向を凝らしている。
以前に、武芸者同士を真剣で戦わせる闇試合なる見世物があったが、それを遥かに凌駕する規模と悪辣さ。
そのくせ一番体を張る当人には一文も入ってこないとは、これいかに?
藤士郎はたいそう憤慨するも、気になるのは義手の女だ。
「またしても、か。こうなるともう偶然なんかじゃないね。しかし、いったい何者なんだろう」
「そちらに関しては、うちの方でも調べてみますから、何かわかりましたらお知らせしましょう。それでこれは頭からの伝言です。『陰ながら応援しておりますので、どうぞ気張っておくんなまし』と」
陰ながら……。
それすなわち、元締めのところは千両首の争奪戦には参加しないということ。
ばかりか、自分たちの領域に土足で踏み込んできた千曲屋に対して、元締めはかなり怒っており、横槍を入れる気まんまんのようだ。
構図としては狐侍、千曲屋一派、元締め一派の三つ巴となる。
もういっそのこと江戸から逃げ出して、ほとぼりをさますべきかと藤士郎は考えを口にするも、「それは厳しいかと」と元締めの側仕えの女はぴしゃり。
肝心の獲物に江戸を離れられたのでは賭けにならない。
だからすでに逃げ道を封鎖されており、厳重に見張られている。下手に脱出しようとすれば、かえって危ないとのことであった。
えらいことに巻き込まれてしまった。藤士郎は口をへの字に結ぶ。
話は終わった。
別れ際、元締めの側仕えの女はこう言い残す。
「ちなみに九坂さまが生き残るのに賭けた者はいないとのことでしたので、私が賭けておきましたよ。当たれば百八倍にもなるそうで、ぜひとも頑張ってくださいね」
いくら賭けたのかは知らないけれども、ちゃっかりしている。
藤士郎は半ば呆れつつ、女が暗がりの彼方に消えるのを見送った。
一方、これよりも半刻ほど前のことである。
九坂の家ではすでに騒動が起きていた。
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