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其の四百九 手入れ
しおりを挟む巌然和尚が不在のときに、知念寺が閉門の憂き目にあった。
まるで見計らったかのようなやり口に違和感を覚えた藤士郎は、知念寺を辞去し向かったのは芝の増上寺である。
ここの高僧であらせられる幽海は巌然とは兄弟弟子にて、修行時代からの古い付き合いだ。
芝の増上寺は浄土宗の七大本山の一つであり、神君家康公ゆかりの寺でもある。そこで次期大僧正とも目されている幽海ならば交友関係も広く、なにか裏の事情を知っているのではと藤士郎は考えたのだけれども……。
「えっ、幽海さまはいま都に行っているんですか」
帝に近しい公卿からの要請で、わざわざ船を仕立てて向かったのが、つい三日前のこと。高齢と距離を理由に断わろうとしたのだけれども、やんごとない立場の方からのたっての願いに渋々重い腰をあげたんだとか。戻ってくるのは早くても来月になるそう。
寺の者からそう告げられて、藤士郎はすごすごと引き下がるしかなかった。
頼みの綱がぷつんと途切れた。
「……にして、巌然さまだけでなく幽海さままで留守とは、なんて間の悪い」
ぶつぶつ文句を言いつつ、腕組みにて次の手立てを思案し藤士郎が歩いていたら「あら、九坂さまじゃありませんか」と声をかける者がいた。
梅千代であった。名こそ梅だが菊の花に例えられるこの美女は、深川の置屋大戸屋に所属する辰巳芸者にて、その正体は猫又である。
というか江戸の芸者の半分ぐらいが、じつは猫又だったりする。三味線や小唄の師匠などもにも多く混じっている。ちなみに京の芸妓の大半は狐で、大坂の方は狸が幅を効かせていたりする。
とどのつまり、華やかなりし江戸の花柳界は猫又らによって牛耳られており、人間の男たちは彼女たちの手の上でころころ転がされているということだ。
酒の席と夜の世界を彩るのに欠かせないのが華やかな蝶の存在。
梅千代は売れっ子芸者にて、あちこちのお座敷に引っ張りだこ。
なれば、何か噂のひとつなり聞き及んでいるかもしれない。
そう考えて藤士郎は、どうして知念寺がいきなり槍玉にあげられたのか、心当たりがないか訊ねてみたのだけれども……。
「巌然さまのところが、そんなことになっていたとはついぞ知りませんでした。えっ、何か小耳に挟んでいないかですって。どんな些細な事でもいいとおっしゃられても。
う~ん、すみません、あいにくと。ここのところ呼ばれるお座敷はもっぱらお武家さまのところで、話題といえば城内での人事や田沼の殿様のことばかりですしねえ。
……あっ、そういえば、たしか少し前に、生駒が新たに寺社役を賜った方の祝いの席に呼ばれたとか言っていたような」
生駒は和田屋に所属する辰巳芸者にて、椿の花に例えられる派手な美女だが、こちらの正体もやはり猫又である。
そして寺社役というのは寺社奉行の配下にて、神官僧侶の犯罪を検分したり、素行の調査を行う役職のことである。他には寺社領に対する幕府よりの貸付金の調べや、寺社内での興行の臨監をしたりもする。
直接寺社とかかわる機会が多く、権限も強い立場ゆえに、これに睨まれると厄介だ。
なので、お目こぼしがてらすり寄る生臭坊主もいるとかいないとか。
が――それゆえに誘惑も多いので、寺社役には特に厳格な者が選ばれるのがつねとも聞く。
城内のことなんぞは雲の上のこと。前任者との兼ね合いもわからない。
けれどもこの頃合いでの就任というのがいささか引っかかる。
藤士郎は梅千代に礼を述べて別れた。
新たに寺社役となった者について、生駒からより詳しい話を聞こうと思い立ち深川に足を向けた。
和田屋に着けば、ちょうど生駒が出先から戻ったところであったので、藤士郎はさっそく例の話を始めようとしたのだけれども、そこへ駆け込んできたのは置屋の小間使いの者であった。彼の口より思わぬ報せがもたらされる。
「て、ていへんだぁ! 銀花堂に町奉行所の連中がいきなり押しかけてきやがって、若だんながしょっぴかれちまった」
矢も楯もたまらず。藤士郎はすぐさま腰を上げて、銀花堂へと駆け出した。
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