406 / 483
其の四百六 噂
しおりを挟む知念寺の門前通りにある茶屋にあらわれたのを皮切りに、江戸市中にて急に増えたのが不思議な義手の女の目撃である。
一度見たら忘れない特徴的な容姿ゆえに、他人の空似なんぞはありえない。
おかげで巷では世直し大明神のことと、謎の義手の女の噂でもちきりだ。
「あぁ、あの方ですか。はいはい、たしかにうちにも来られましたよ」
と――老舗の菓子屋津雲屋の若主人である庄之助は目尻をさげた。
津雲屋は日本橋の通りにあって、諸大名とも取引のある大店だ。
庄之助は職人としての腕はさっぱりだが、甘味愛に溢れ商才も豊かなもので、大店の跡継ぎとしては申し分がない。そんな庄之助は先頃、同業者である弁天堂の長女であるおゆうを嫁に迎えた。
このおゆうが女だてらに一流職人ばりの菓子作りの腕を持つ。
板場や職人の世界は男社会にて、格式ばった店ほど、女人が立ち入ることをことさら嫌う風潮にある。
しかし庄之助はこれを「くだらない」と一蹴し、おゆうの腕前と人柄にぞっこん惚れこんでの婚姻であった。
そんな婚姻に絡んでひと悶着あったのを解決したのが、なにをかくそう狐侍こと九坂藤士郎であった。
これが縁となり、ときおり店に顔を出すようになった藤士郎は、たまさか店先にいた庄之助との立ち話にて、義手の女のことを聞いた。
でも、このときは「へぇ、あの人、ここにもきたんだ」ぐらいにしか思わなかったのだけれども……。
「いらっしゃい藤士郎さん。このあいだの源氏物語の写本、評判が上々で、もしかしたらまた注文が入るかもしれませんよ。筆遣いが可憐で繊細だって、依頼主さまが褒めてましたから。
そうそう、可憐といえば例の唐輪髷の女性なんですけど、うちにも来られましたよ。
雨月物語の五巻組をお買い上げいただきました。
けど、あの腕、本当に造り物なんですか? ふつうに本の風呂敷包みを両手で抱えていましたから」
とは――書物問屋の銀花堂の若だんな、林蔵の談である。
林蔵はあまり表には出てこない無精な主人の父新右衛門にかわって、まだ若いながらも店の方をまかされている如才のない人物。親子して本狂いなのは世間に広くしられており、類は友を呼ぶではないが、お店には本好きの馴染み客が良書を求めて足を運ぶもので、店はいつも賑わっている。
藤士郎と林蔵。写本仕事のやりとりを通じて何度も顔を合わせているうちに、歳が近いということもありすっかり意気投合。いまでは気安い間柄となっており、近藤左馬之助ともども数少ない藤士郎の理解者でもある。
義手の女が雨月物語の本を買っていったと聞いて、藤士郎は小首を傾げた。
「女の人が怪談ですか……たしかに、妖怪の絵草子などを面白がる女の方もいますけど、上田秋成に手を出すのは珍しいですね。よほどの本好きなのでしょうか」
雨月物語は上田秋成著の名作である。
全五巻、九編からなる妖しくも切ない幻想譚は、どれも素晴らしい。
西行が崇徳上皇の亡霊と対峙する「白峰」、契りを交わした義兄弟が死してなお約束を果たそうとする「菊花の約」、都で一旗あげようと出かけた夫をいつまでも待つ妻の悲哀を綴った「浅茅が宿」、僧侶が夢の中で鯉となって泳ぐ「夢応の鯉魚」、旅人が高野山で豊臣秀次ら一門の怨霊らの宴に遭遇する「仏法僧」、夫に裏切られた妻が凄惨な復讐にて祟り殺す「吉備津の釜」、逃げる男をどこまでも追いかける女の妄執の凄まじさを描いた「蛇淫の性」、稚児に迷い人喰い鬼と化した僧侶「青頭巾」、金銭の精が金子のあり方を説く「貧福論」
内容はどれも素晴らしい出来である。
なのに売上げはいまひとつ。いや、けっして悪くはない。じりじりのびている。けれども、手に取りやすい絵草子などに比べると内容が大人向けにて、どかんと「千部振舞!」とはなかなか……。
本好きはみな「どうしてこれが売れずに、難解な算術を扱う塵劫記(じんこうき)なんぞが飛ぶように売れているんだ?」と不思議がっている。
「あぁ、そういえば、そんな女が境内をうろついていたという話を少し前に耳にしたのぉ」
湯飲み片手にそう言ったのは、幽海であった。
幽海は芝増上寺の高僧。博識な学者としても広く知られた人物にて、なんと、あの巌然和尚の兄弟弟子にあたり、小僧時代には同じ師につき寝食を共にした仲である。
「健全なる精神、信心を貫くには屈強な身あってこそ!」と唱える肉体派の巌然。
「書は叡智の結晶。知こそが力。これに勝るものなし!」と唱える頭脳派の幽海。
見た目から考え方に至るまで、なにもかもが正反対。
まるで水と油のようなこのふたり。双方たいそう頑固にて、ことあるごとに対立しては喧々諤々。いったいどれほどの数の議論と問答を重ねたことか。
そんなふたりだが、だったら仲が悪いのかといえば、じつはそうでもない。
むしろ腹を割って本音をぶちまけられる気安い間柄だったりする。
ご近所と幼少のみぎりからの義理もあり、なにかと怪異絡みにて巌然にこき使われている藤士郎であったが、加賀藩の江戸藩邸を舞台にしたさる騒動のおりに幽海と知り合って以来、なにかと知恵を拝借している。
ひさしく顔をみせぬ不義理をしていたことを思い出し、増上寺近くに出かけたおりに、ついでに挨拶にいった藤士郎は、そこでもまた義手の女の噂を耳にした。
それだけ世間の注目を集めている、目立っているということなのだけれども、帰り道の途中で会った猫又芸者らからまで「そういえば、深川でも何度か見かけましたよ」と云われては、さすがに「ううん?」と内心で首をひねる。
気のせいか、自分の行く先々であらわれているような……。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる