狐侍こんこんちき

月芝

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其の四百六 噂

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 知念寺の門前通りにある茶屋にあらわれたのを皮切りに、江戸市中にて急に増えたのが不思議な義手の女の目撃である。
 一度見たら忘れない特徴的な容姿ゆえに、他人の空似なんぞはありえない。
 おかげで巷では世直し大明神のことと、謎の義手の女の噂でもちきりだ。

「あぁ、あの方ですか。はいはい、たしかにうちにも来られましたよ」

 と――老舗の菓子屋津雲屋の若主人である庄之助は目尻をさげた。
 津雲屋は日本橋の通りにあって、諸大名とも取引のある大店だ。
 庄之助は職人としての腕はさっぱりだが、甘味愛に溢れ商才も豊かなもので、大店の跡継ぎとしては申し分がない。そんな庄之助は先頃、同業者である弁天堂の長女であるおゆうを嫁に迎えた。
 このおゆうが女だてらに一流職人ばりの菓子作りの腕を持つ。
 板場や職人の世界は男社会にて、格式ばった店ほど、女人が立ち入ることをことさら嫌う風潮にある。
 しかし庄之助はこれを「くだらない」と一蹴し、おゆうの腕前と人柄にぞっこん惚れこんでの婚姻であった。
 そんな婚姻に絡んでひと悶着あったのを解決したのが、なにをかくそう狐侍こと九坂藤士郎であった。
 これが縁となり、ときおり店に顔を出すようになった藤士郎は、たまさか店先にいた庄之助との立ち話にて、義手の女のことを聞いた。
 でも、このときは「へぇ、あの人、ここにもきたんだ」ぐらいにしか思わなかったのだけれども……。

「いらっしゃい藤士郎さん。このあいだの源氏物語の写本、評判が上々で、もしかしたらまた注文が入るかもしれませんよ。筆遣いが可憐で繊細だって、依頼主さまが褒めてましたから。
 そうそう、可憐といえば例の唐輪髷の女性なんですけど、うちにも来られましたよ。
 雨月物語の五巻組をお買い上げいただきました。
 けど、あの腕、本当に造り物なんですか? ふつうに本の風呂敷包みを両手で抱えていましたから」

 とは――書物問屋の銀花堂の若だんな、林蔵の談である。
 林蔵はあまり表には出てこない無精な主人の父新右衛門にかわって、まだ若いながらも店の方をまかされている如才のない人物。親子して本狂いなのは世間に広くしられており、類は友を呼ぶではないが、お店には本好きの馴染み客が良書を求めて足を運ぶもので、店はいつも賑わっている。
 藤士郎と林蔵。写本仕事のやりとりを通じて何度も顔を合わせているうちに、歳が近いということもありすっかり意気投合。いまでは気安い間柄となっており、近藤左馬之助ともども数少ない藤士郎の理解者でもある。

 義手の女が雨月物語の本を買っていったと聞いて、藤士郎は小首を傾げた。

「女の人が怪談ですか……たしかに、妖怪の絵草子などを面白がる女の方もいますけど、上田秋成に手を出すのは珍しいですね。よほどの本好きなのでしょうか」

 雨月物語は上田秋成著の名作である。
 全五巻、九編からなる妖しくも切ない幻想譚は、どれも素晴らしい。
 西行が崇徳上皇の亡霊と対峙する「白峰」、契りを交わした義兄弟が死してなお約束を果たそうとする「菊花の約」、都で一旗あげようと出かけた夫をいつまでも待つ妻の悲哀を綴った「浅茅が宿」、僧侶が夢の中で鯉となって泳ぐ「夢応の鯉魚」、旅人が高野山で豊臣秀次ら一門の怨霊らの宴に遭遇する「仏法僧」、夫に裏切られた妻が凄惨な復讐にて祟り殺す「吉備津の釜」、逃げる男をどこまでも追いかける女の妄執の凄まじさを描いた「蛇淫の性」、稚児に迷い人喰い鬼と化した僧侶「青頭巾」、金銭の精が金子のあり方を説く「貧福論」

 内容はどれも素晴らしい出来である。
 なのに売上げはいまひとつ。いや、けっして悪くはない。じりじりのびている。けれども、手に取りやすい絵草子などに比べると内容が大人向けにて、どかんと「千部振舞!」とはなかなか……。
 本好きはみな「どうしてこれが売れずに、難解な算術を扱う塵劫記(じんこうき)なんぞが飛ぶように売れているんだ?」と不思議がっている。

「あぁ、そういえば、そんな女が境内をうろついていたという話を少し前に耳にしたのぉ」

 湯飲み片手にそう言ったのは、幽海であった。
 幽海は芝増上寺の高僧。博識な学者としても広く知られた人物にて、なんと、あの巌然和尚の兄弟弟子にあたり、小僧時代には同じ師につき寝食を共にした仲である。

「健全なる精神、信心を貫くには屈強な身あってこそ!」と唱える肉体派の巌然。
「書は叡智の結晶。知こそが力。これに勝るものなし!」と唱える頭脳派の幽海。

 見た目から考え方に至るまで、なにもかもが正反対。
 まるで水と油のようなこのふたり。双方たいそう頑固にて、ことあるごとに対立しては喧々諤々。いったいどれほどの数の議論と問答を重ねたことか。
 そんなふたりだが、だったら仲が悪いのかといえば、じつはそうでもない。
 むしろ腹を割って本音をぶちまけられる気安い間柄だったりする。

 ご近所と幼少のみぎりからの義理もあり、なにかと怪異絡みにて巌然にこき使われている藤士郎であったが、加賀藩の江戸藩邸を舞台にしたさる騒動のおりに幽海と知り合って以来、なにかと知恵を拝借している。
 ひさしく顔をみせぬ不義理をしていたことを思い出し、増上寺近くに出かけたおりに、ついでに挨拶にいった藤士郎は、そこでもまた義手の女の噂を耳にした。
 それだけ世間の注目を集めている、目立っているということなのだけれども、帰り道の途中で会った猫又芸者らからまで「そういえば、深川でも何度か見かけましたよ」と云われては、さすがに「ううん?」と内心で首をひねる。
 気のせいか、自分の行く先々であらわれているような……。


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