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其の四百三 橈骨
しおりを挟む屋敷内は血の海にて、そこかしこに死体が転がっていた。
腹を切り裂かれ臓物をぶちまけているもの、首をもがれているもの、上半身と下半身が分かれているもの、胸元を抉られているもの、手足が千切れているもの、身を深々と切り裂かれているもの……。
どの骸も損壊が激しい。五体満足な姿はひとつもない。
とても人の仕業とは思えぬ。
惨劇の現場に充ちるのは、血と死と濃密な恐怖の残滓だ。
何者かの襲撃を受けて犠牲になった者どもが、息絶える間際に抱いた強い畏怖の念がべったりとまとわりついている。
それすなわち、ひとおもいに屠らず、猫が鼠をいたぶるがごとく、獲物を散々に弄んで相手の心をも存分に痛めつけてから、絶望のうちに死へと至らしめたということ。
窮奇は眉をひそめつつ、屋敷の奥へと急ぐ。
けれども少しばかりかけつけるのが遅かった。
死と静寂が充ちる中、かすかに聞こえてきた喧騒を頼りに向かった先は、お堂である。
窮奇が堂内に飛び込んだところで、目にしたのは月遙の命がまさに尽きんとする場面であった。
天女のごとき美しい女官が、道士姿の月遙を片手で軽々と持ち上げている。
月遙の体からは力が抜けており、目も虚ろにて、されるがままだ。
だがそれも無理からぬこと、なにせ女官の右腕が人のそれではなかったのだから。
鋭い爪を持つ猛々しい虎の前足――人面虎足にて人の皮を被った化け物! 右腕が深々と突き刺さっていたのは、月遙の胸元であった。鳩尾から背中へと貫いている。
仕留めた獲物を高らかに掲げては、破れた心臓から滝のように溢れ出す血を、ごくごくごく……。
血を飲みながら女官は凄艶なる笑みを浮かべていた。
「うまい、うまい、こんなにうまい血は幾百年ぶりであろうか。うむ。しかし、失敗したな。こしゃくにもおもわぬ抵抗をされたもので、つい殺してしまったが、これならば飼い殺しにして血を啜り続けてやるのであったわ。
おや? これはこれは窮奇ではないか。ひさしいの、いつぞやは世話になったな」
とっくに気がついていたくせに、女官がわざとらしくそう言ってふり返った。
まるでこの場に居合わせたのが、さも偶然のような物言いだが、そうではないことは女官の目を見ればすぐにわかった。
すべては月遙と窮奇の関係を知った上での凶行。意図してのこと。もとより邪魔な結界を担っている道士を始末する必要があり、古馴染みに意趣返しもできて一石二鳥といったところか。
窮奇がぎちりと奥歯を噛みしめ「ぐるる」と喉を唸らせる。
「橈骨(とうこつ)……貴様、またぞろ悪い虫が騒ぎだしたか」
「悪い虫とはひどい言い草だな、窮奇よ。それはとんだ誤解というもの。儂はただ己に与えられた使命を忠実にまっとうしているのに過ぎぬというのに」
「はん、無用な争いを引き起こすことが使命だと? 笑わせんな」
「べつに戯言ではないのだがなぁ。血と死臭に溢れた戦乱の風を吹かすことこそがこの橈骨の役割り。儂はそういう生き物としてこの世に生を受けた。だから、これを果たすのが天命というものであろう」
「言うにことかいて天命とは、てめえはいったい何様のつもりだ?」
「……何様のつもりもない。そのままの意味なのだが、旧知の間柄だというのに理解してもらえぬのは寂しいなぁ。
お前からすれば、この橈骨は人の世に災いを招く邪悪そのものなのかもしれんが、それもまた勘違いだぞ。
なにせ儂は人間ほど人間を多く殺してはいない。それに儂が起こす争乱のおかげで、どれだけ社会が潤い、国が発展し、技術や文明が進むことか。
くくく、知っているか? 天上の神々や仏どもは、あれでけっこう気が短いらしい。
ちんたら亀の歩みにて、同じところをうろちょろ行ったり来たり。ちっとも前に進まぬ人間どもに、ずいぶんと業を煮やしているようだ。
そんなことよりも窮奇もどうだ?
うまいぞ、この女の血は格別だ。さすがはおまえが目をかけていただけのことはある」
言われた瞬間、窮奇が怒髪天を衝く。怒りのままに有翼の黒銀虎が女官姿の橈骨に襲いかかろうとする。
だがしかし、その時のことであった。
不意に瞳に光を取り戻したのは月遙であった。消えかけていた命の最期の輝き。残る気力を振り絞っては、右手に隠し持っていた小刀を橈骨の右目に突き入れ、さらに符術を放つ。
刹那、閃光とともに月遙の右腕が付け根から爆ぜ、右目を潰されたばかりか顔半分をも吹き飛ばされた橈骨は「ぎゃあぁぁぁぁぁ」と絶叫をあげた。
「ふふっ、ざまぁ……み……ろ」
笑みを浮かべた月遙、その瞳からふっと命の灯火が消える。
苦しみもがく橈骨は、それでも月遙の骸を手放さない。
そこへ窮奇が牙を剥き踊りかかった。
――鎬京の都を焼いた炎は三日三晩燃え盛り、すべてを灰塵に帰す。
そしてこの出来事を境として、各地での紛争はより激化の一途を辿り、ついには春秋戦国乱世が幕を開けた。
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