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其の三百八十二 箱根神社
しおりを挟む遠方へと赴いていたもので、長らく江戸を離れていた藤士郎たち。
屋敷の方は母志乃が守ってくれており、藤士郎が留守の間にも猫又芸者やら裏の竹林に住む狸の一家、河童の三太、宗吉、お通ら三人組がこまめに顔を出しては様子を見に来てくれていたおかげで、取り立てて問題もなく無事であった。
しかし帰ったら帰ったで、方々への挨拶回りやら、ご機嫌伺いに、たまった仕事の片付けにと忙しく、のんびり旅の垢を落としている暇もありゃしない。
とはいえ、忙しくしているのは藤士郎のみ。
猫の身分である銅鑼は気楽なものだ。食っちゃ寝にて、縁側で日向ぼっこをしては鼻提灯を膨らませている。
それを恨めしげににらみつつ、藤士郎はせっせと写本仕事に精を出す。
こうして平穏な日常を取り戻しつつあった九坂家であったが、それは突如として破られた。
だぁあぁぁぁぁぁぁぁああん!
もの凄い轟音とともに、屋敷中がびりびり震えて、天井のそこかしこから埃の雪が舞い落ち、部屋の畳や廊下の床からは埃の白煙があがった。
吃驚して藤士郎は写本の書き損じをして「あーっ!」
銅鑼は慌てたひょうしに縁側から転げ落ちて「ぎゃっ!」
裏庭で洗濯物を干していた母志乃は「あらあら、これは……」と特に気にもせず、濡れた着物をぱんぱんしてはしわを引き延ばす。
そう、藤士郎と銅鑼はすっかり忘れていたのだが、母志乃はちゃんと覚えていた。
ここ九坂邸を訊ねてくる珍客らの中に、とびっきり威勢のいい音をさせて入ってくる者がいることを。
見てくれこそは立派だが、よくよく見てみると全体が傾いでいる。大工小鬼どもからも「これはいっそ建て直した方がはやい」と匙を投げられた。
そのせいで建付けの悪い屋敷の正門の扉は、たとえ力士が数人がかりでもびくともしやしない。
だというのに、これを片手で易々と開ける女がいる。
浅黄色の縞模様をした男物の着物に、藍の羽織を肩にかけた格好の偉丈夫。背の高い藤士郎よりも、さらに頭ひとつ分ぐらい大きな女伊達。
藍染川を仕切っている河童の得子だ。
利根川にその御方ありと知られた東の女傑、河童の大親分である禰々子(ねねこ)さまの右腕とも目される姉御である。
「藤士郎さん、いるかい? ちょいとそこまで付き合って欲しいんだが……。おや、銅鑼殿もいたのか、そいつは好都合だ。探す手間がはぶけた」
東日本でも屈指、江戸界隈では知らぬ者のいない河童の姉御に誘われて、否と言えるわけもなく、さりとて仕事を途中で放り出すのもはばかられる。
「ご無沙汰してます、得子さん。ええ、付き合うのはべつにかまいませんけど、四半刻だけ待ってもらえませんか。いまやっている写本仕事を片付けてしまいたいので」
得子が母志乃のお手製のきゅうりの糠漬けをお茶請けに、熱い番茶を啜っているうちに、藤士郎はせっせと筆を走らせた。
◇
すでに日が暮れ、夜になっている。
「ちょいとそこまで」
と気軽に誘われたもので安請け合いをしたのだが、藤士郎は早くもそのことを後悔していた。
なぜなら眼下には天下の険である箱根の山々が連なり、江戸の町の灯りは遠ざかる一方であったから。
ずんずん近づいてくる大きな黒い水溜まりは、芦ノ湖であろうか。
ちなみに、いま藤士郎たちは得子が預かっている藍染川の化身である小龍の背にまたがっている。
仮にも神様を足に遣うとか恐れ多いことにて、これにはさしもの銅鑼もちょっと顔を引きつらせている。
なのに当の得子はかんらかんら、「いいんだよ。たまには外で存分に体を動かさないと、鱗の間に苔が生えちまう」なんぞと豪快に笑う。
やがて芦ノ湖の上空へと差し掛かった一行。
すると小龍が右へと頭を向けた。
とたんに藤士郎たちの目に飛び込んできたのは、彼方にて煌々と灯る明かりである。周囲の闇の中で、そこだけがまるで不夜城のごとき輝きを放っていた。
「お祭りでもしているのかしらん? あれはいったい……」
不思議そうに目を見張っている藤士郎に得子が言った。
「あれは箱根神社さ。今宵はあたいたち、河童の貸し切りでね」
祭りは祭りでも人間のものではなくて河童たちの祭典。
ではどうして、そんな席に藤士郎が招かれたのか。
それは……。
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