狐侍こんこんちき

月芝

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其の三百八十一 初恋の風

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 朝靄が垂れ込める静寂の墓場――。
 姿をみせたのは、お武家であった。まだ壮年にもかかわらず、すでに御髪に白いのがちらほら混じっている。
 ひとりきりにて、手には山百合の花を一輪持っている。

 この様子をこっそり隠れ見ていた藤士郎たちは、それで相手の正体に気がついた。
 ずっと前に、お峰と文のやり取りをしては、ちょこっといい雰囲気になりかけたという、あの御仁だ。
 文のひとつふたつで一喜一憂できた若かりし頃、淡い初恋である。

 故人を偲んで、お峰の墓へと通う者も多かったが、それも四十九日が過ぎれば自然と足が遠のいていった。生者は死者と違って、いろいろと忙しいのだ。
 以降、身に覚えがある亭主は怖がって女房の墓には近寄らず。
 店主があからさまに怯え忌避しているもので、店の者らも大手を振っては墓参りに来れない。寺の住職の読経はたいそう耳障りにて、ちょいちょいやってくるのは亭主が招いたという旅の修験者ばかりにて、来れば「悪霊退散!」とやかましい。
 それが薄っすら悪い噂となったせいで、ますます知己が近寄りがたくなっている今日この頃。

 だというのに立場のある忙しい身にありながら、いまだにふらりとやってきては黙って花一輪を供え、手を合わせてくれる。
 真摯な態度に人柄がにじみ出ていた。おそらくは気真面目で、それでいて不器用な人なのだろう。
 でもだからこそ、この御仁とお峰のふたりが結ばれることはなかった。
 武士と大店の一人娘、互いに家を背負う身にて、すべてを捨てて手に手をとって……などという無責任なことはけっしてできない性分。周囲に不義理を働いて、自分たちだけが幸せになることを許容できるような人間ではない。

 それでも文を綴っては、想いを伝えずにはいられなかった。
 そんな相手の気持ちが文面に溢れていたからこそ、受け取った側も心が揺さぶられた。
 内職の写本仕事にて、文章についてはいっぱしの見識を持つ藤士郎、失礼ながら確認がてら、中身をちらり流し読みしただけでも、いまだに薫り立ち文面に吹く初恋の風を感じたほどである。

 過ぎ去りし遠い昔のこと。
 ふたり、ともに若かったのだ。
 だというのに、あの頃の想いをいまだに大切にしている……してくれている。
 いい想い出として胸の奥で大事にとっておいてくれている。
 それはとても照れ臭くもあり、それでいてちょっとうれしくもあって……。

 お峰がこの御仁の邪魔をしたくない、その行く末を気遣って、肩入れしたくなる気持ちもわからなくはない。
 もしも自分が女の身にて、同じことをされたら、きっとほだされるだろう。それが人の情というものだ。
 藤士郎が小声にてひそひそ、お峰に話しかける。

「いっそのこと姿をみせて、ちゃんとお別れをしたらどうだい?」

 でも、お峰は「ふぅ」と小さく息を吐き「無茶を言わないでくださいな。こんな浅ましい姿、あの方にだけは絶対に見せたくありません」とぴしゃり。
 女にだって見栄もあれば意地もある。
 男の中にある綺麗な想い出を、わざわざしゃれこうべ姿で上書きなんぞしてたまるか。
 だから何があっても、この御仁の前にだけは化けて出てなんぞやらない。

 その気持ちもわからなくはない。
 だからとて、これを放っておいては、別の未練が残ることであろう。
 そこで藤士郎は意を決して物陰より姿をあらわした。

 こんな時刻に、こんな場所である。
 てっきり自分だけだとおもっていた御仁は、急にあらわれた若侍にたいそう驚き、そして警戒する。
 けれども藤士郎はそれにはかまわずに、無言のままからくり箱を差し出す。
 中には文の束が入っているけれども、それはお峰と御仁との間でかわされた分のみにて。余計なものは抜いてある。

「貴公は……それにこれは?」

 御仁はおおいに訝しむも、とりあえず受け取った。

「私はお峰さんの知人で名乗るほどの者じゃありません。この箱の中にはお峰さんとあなたが交わした文が入っています。遺言でした。もしもあなたがここにあらわれることがあれば渡して欲しいと。それから『ありがとう、どうかご自愛ください』とも」

 真っ赤な嘘である。
 とっさに藤士郎がでっちあげたもの。
 だがお峰はすでに亡くなっており真偽の確認のしようはなく、それでいて実物はすぐ目の前にある。これにより嘘は俄然、真実味を帯びてくる。
 そして若くして藩の重職についているだけあって、御仁は聡い。
 すぐに諸々のことや、自愛の意味も察したのか「そうか」とだけ。

  ◇

 朝陽が昇りきり町が本格的に目覚める前に、御仁は帰っていった。
 遠ざかるその背を見送りながら、「勝手をしてごめん」と藤士郎が詫びれば、お峰は「いえ、きっとあれでよかったんでしょうよ」と許してくれた。

「これで心残りもなくなったことだし、安心して成仏できるな」

 銅鑼は「ふわぁ」とあくびまじり。けっきょく徹夜仕事になってしまったもので。
 するとそこに聞こえてきたのは読経の声である。
 寺での朝のおつとめなのだろうけど……。

「う~ん、こいつはたしかに下手だねえ」
「信じられん。おれの眠気が一発で吹っ飛んだぞ」

 あまりのまずさに眉間にしわを寄せている藤士郎と、驚きのあまり目が点となっている銅鑼に、お峰が首をすくめた。

「でしょう? だもので、すぐに成仏するのはちょっと難しいかも」

 とたんに墓場の方から、どっと亡者たちの笑いが起きた。


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