狐侍こんこんちき

月芝

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其の三百七十二 瑞雲寺、炎上

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 藤士郎は廊下の方にばかり気をとられている。
 無防備に晒されている背中へとにじり寄り、そっと刀を抜いた東條恭之進が、いままさに切っ先を突き入れようとしたときのことであった。

「……やはり、あなたが影星だったんですね」

 群れ集う凶星たち、その陰に潜む者を指して藤士郎はそう言い表す。
 これに東條恭之進は、ぎょっ!

「――いつ、気がついた?」

 その言葉に藤士郎は応じず。襖を少しだけ開けて、するりと滑り込み廊下へと。
 ちらりと廊下の奥に目をやれば、二人の武士に囲まれて倒れている長七郎の姿があった。 斬られたのは明白にて……。
 けれども藤士郎は取り乱すこともなく、むしろ凶行に及んだ側の方がおろおろ動揺している。
 それもそのはずだ。たしかに斬ったのに手応えが妙にて、長七郎が血の一滴も流してはいなかったからである。
 そんな男たちの目の前で、倒れていた長七郎の姿がぽんっと人形(ひとがた)の紙切れに変わった。
 堂傑の式神だ。巌然和尚が銅鑼と共に寄越した御札のおまけ。
 かつて血祭り炎女事件のおりに、復讐に燃える火切り鎌の付喪神を相手にひと芝居した時のことを真似てみた。

 とどのつまり藤士郎といっしょにやってきたのは、真っ赤な偽物ということ。
 騙し討ちを目論んでいたのに、まんまと騙されたと知って東條恭之進は激怒する。
 藩の剣術指南役という仮面をかなぐり捨てて、獰猛な本性をさらけ出す。

「おのれっ、こしゃくな! えぇい、者ども、であえであえ」

 とたんに、そこかしこにて息を潜めていた手勢がぞろぞろとあらわれ、瑞雲寺の静謐は破られる。
 やはり瑞雲寺は東條恭之進と城代家老一派に乗っ取られていた。
 これにより瑞雲寺は虎口と化す。あとはそれを知らぬ獲物がのこのこやってきたのを喰らえばいいだけ……。
 多勢に囲まれた藤士郎が、きっと東條恭之進をにらむ。

「何組仕留めた?」

 刀を振りやすいように諸肌となった東條恭之進は「おまえたちを入れて、三組だ」と答えた。
 酷い話だ。
 散々に苦労をして辿り着いた先にて、待っているのは手酷い裏切り。よもや殿に近しい剣術指南役が裏で城代家老一派と通じているとは……悪辣な罠にて、巌然の忠告がなければ藤士郎たちとて危うかった。
 何も知らなければ、きっとひとたまりもあるまい。

「荷をどこへ隠した? 白状すれば、おまえは見逃してやってもいいぞ。いや、なんなら仲間にしてやってもいい」

 東條恭之進が甘言を弄(ろう)すも、返答がわりに藤士郎は小太刀を抜いた。

  ◇

 突っ込んでくる相手の脛を斬り、床に転がす。
 これを乗り越えようとする者が跳ねるのに合わせて、蹴りを繰り出す。宙で胸元をどんっと足の裏で押された相手は、踏ん張れずに引っくり返った。
 それらが堰となって後続が足踏みしているのを尻目に、きびすを返した狐侍はあえて敵勢が密集しているところへと滑り込む。
 すわ迎え討たんとする敵勢だが、そこで起きたのは抜き身同士のお見合いである。
 刀と刀をぶつけては打ち鳴らし、驚き慌てて離れる。
 その生じた隙間、白刃の下を身を低くして駆け抜けざまに閃くのは狐侍の小太刀だ。狙うは膝上、ふくらはぎ、足の甲など。深く斬る必要はない、半寸ばかしで充分だ。それだけで血が溢れ、肉が裂け、人は痛みに身悶えし、ろくに動けなくなる。

 数を頼みとするはずが、逆に足枷となっている。

「おのれちょこまかと。何をしておるのか! 惑わされるな、囲んで確実に仕留めよ」

 東條恭之進が怒鳴るも、その時にはすでに狐侍の姿がべつのところへと移動しており囲めない。
 そうして廊下から廊下へ、部屋から部屋へ、部屋から廊下へと。広い屋内を駆け回っては、敵勢を翻弄し、追いすがってきた者を返り討ちにしては、また走るを繰り返す。
 そうして狐侍が暴れていたら、周囲にきな臭い匂いが漂ってきた。
 どうやら集団が右往左往しているうちに、誰かがうっかり燭台でも倒して火がついたらしい。
 もちろんすぐに消そうとしたのだろうけど、そこへ飛び込んできたのが――

「ひぃいぃぃぃ、と、虎だ! 虎がいるぞ!」

 自分も混ぜろとばかりに乱入してきたのは、有翼の黒銀虎である。
 火と虎のせいで、瑞雲寺の境内は騒然となり、混乱にさらに拍車をかけることになった。


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