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其の三百六十八 瑞雲寺
しおりを挟む麓から山門まで続く瑞雲寺の長い石段、両脇に並ぶ石灯籠に灯された明かりを横目に、ゆっくりと石段をおりていたのは朧一家の首領である鬼平太であった。
この肌がひりつくような感覚……。どこぞよりあらわれてはぞわりと這い寄り、隙あらば喉笛に食らいつき、あの世へと引きずり込もうとする死の気配。
生と死の狭間、死地、窮地、死線、死角……幾度となく経験し、ねじ伏せ、超えてきたもの。
長年、裏の世界にどっぷり浸かっていた身だからこそよくわかる。
強敵がすぐそこにまで迫っている。
「ふっ、しくじったか。寿慶の奴も口ほどにない。いや、ちがうな。この場合、褒めるべきは相手の方か……。にしても、ここにきて伯天流の遣い手と巡り会うとはな」
殺し屋集団を率いていた男は、しみじみと遠い過去へと思いを馳せる。
◇
鬼平太というのは、もちろん本当の名ではない。裏稼業における仮の名だ。だがあまりにも長いことこの世界に身を置くうちに、真偽が入れ替わり、いまではこちらの名前以外で呼ぶ者はいない。
だが鬼平太とて、はじめからこうではなかった。
若かりし頃には、世の剣客どもらが抱くような月並みの野心もあったし、己ならばきっと手に入れられるとの自負もあった。
けれどもそんな鬼平太の矜持を打ち砕く者があらわれた。
志を胸に郷里を離れ、意気揚々と江戸へと乗り込んだ鬼平太。
とはいえなんら有力な伝手があるわけでなし。
そこで考えたのは、たいていの者たちが思いつく安易な方法であった。
手当たり次第に道場破りをしては、己の剣名を一躍世に知らしめる。
小遣い稼ぎにもなって、名も売れて一石二鳥。いずれは噂が噂を呼んで、上の者との繋ぎも出来よう。
なんぞという皮算用もあった。
だが「たのもう」と声をかけた一軒目の道場に、疫病神がいたのが運の尽き。
たまさか出稽古にきており、道場破りの現場に居合わせたのは九坂平蔵――藤士郎の父である。
懇意にしている道場主が難儀していたもので、平蔵が「では、まずはそれがしが」と露払いを買って出た次第。
じつは鬼平太みたいな輩が、近頃とみに増えており、道場主もすっかり辟易していたのである。
一方の鬼平太はといえば、相手は別に誰でもよかった。片っ端から叩きのめせば、いずれ……との思惑があったからだ。
だがしかし――。
はっと気がついたとき、道場の片隅で寝転がされていたのは鬼平太であった。
平蔵の一撃を食らい、のびていたのである。
信じられなかった。ありえない。これは何かの間違いにて、きっと油断していたせい。だからいまいちど勝負をと望むも、その時にはすでに平蔵の姿は道場になかった。
九坂平蔵という男は、伯天流とかいう流派の遣い手にて、おんぼろ道場を営んでいるらしいと知った鬼平太は臍(ほぞ)を噛む。
しょぼくれた冴えない見てくれにすっかり騙された。強者の覇気もなく、剣客の気概もまるで感じられない。いかにも人畜無害といった人相風体であった。
けれども腐っても道場主ならば、相応の腕を持っていてもおかしくない。
だから今度は油断しない。
いや、受けた恥辱を濯ぐべく、けっして生かしておいてなるものか。
果たし状にて、誰の邪魔もはいらぬ荒れ野に呼び出し決着をつける。使うのはもちろん真剣だ。
かくして万全の準備にて再戦へと臨んだ鬼平太であったが……。
またしても地面に転がることになったのは己であった。
同じ相手に二度敗れた。
もはや言い訳のしようもない。
しかも真剣勝負にもかかわらず、情けをかけられ生き恥を晒すことになった。
あの瞬間、鬼平太の中にあった剣客としての自信、武士としての誇りは粉々に砕け散った。
そしてこの出来事をきっかけとして、鬼平太は闇の世界へと沈んでいくことになる。
◇
「あれから刀を捨て扱う得物を小太刀とし、さらには二刀流に体術をも交えて創意工夫を重ね、いまのような戦い方になるまで幾星霜……。
人を斬るばかりの修羅道を突き進み技を磨き上げていくうちに、気がつけば裏の世界ではいっぱしに名の知れた存在となっていたが。
よもや三度、立ちはだかるのかよ、伯天流。
いいだろう……殺してやる。
なぁ、九坂平蔵よ。貴様の息子の死でもって、このくだらぬ因縁にけりをつけようではないか」
石段を半ばまでおりたところで、鬼平太は足を止めた。
ここで遠路はるばるやってきた客人を存分にもてなす所存である。
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