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其の三百六十六 憤怒
しおりを挟む長腕による手刀は槍のようであった。
左の一撃を狐侍は横転しかわす。そこへすかさず右の第二撃が降ってきたが、あわやのところで転がるのを止めたことにより直撃を避けた。
が、その時すでに狐侍は敵の術中にはまっていた。
四本腕に二本の足を持つ奇形の屍蝋、その手足によって形成されていたのは檻である。
牢屋の鞘――格子の柵のこと――のように立ち塞がる長い手足たち。
ならば無防備に晒されている腹部を攻撃したいところだが、相手は屍蝋だ。斬ろうが刺そうが止まらない。
窮地に追い込まれた狐侍が活路を見い出したのは、唯一空いている前方だ。
けれどもそれこそが、閉じ込めた獲物を死地へと誘う本当の罠……。
ぐにゃりと首がのび、屍蝋が牙を剥く。
刹那、狐侍の脳裏に浮かんだのは銅鑼の忠告。
『気をつけろ、あれは伝染するぞ。だから絶対に噛まれるな』
屍蝋は敵をわざわざ殺す必要はない。
ただひと噛みするだけで事足りる。
そのことをほんのわずかながらも失念していた狐侍に、大きく開かれた口が迫る。
このままでは噛まれる!
狐侍がとっさに拾ったのは、たまさか近くに落ちていた石だ。拳みっつ分ほどの石を引っ掴んでは、襲いかかってくる相手の口の中めがけて「えいっ!」
なまじ大口を開けていたのが仇となり、放たれた石は物の見事に口の中に納まった。
これでは口を閉じられない。だからどうにかして吐き出そうともがくも、その首筋へと振るわれたのが小太刀の一閃である。
狐侍の反撃、口の中の石にばかり気をとられていた屍蝋はろくに反応できず。首がのびていたこともあって、その分だけ厚みが失せており、寝転がった体勢の狐侍でもたやすく斬れた。
首を失い混乱する屍蝋をよそに、狐侍は檻から脱出する。
ばかりか距離をとるさいに、落ちていた首を拾うなり、のびているところを持ち手にぶんぶんと振り回しては、明後日の方へと投げてしまった。
残された体があたふたしている。そんな屍蝋を放置して、狐侍が駆け出したのは餓鬼玉がいるであろう方角であった。
◇
それを何と言いあらわせばよいであろうか。
すべての生者に喧嘩を吹っかけているような、ふざけた存在であり、なおかつすべての死者の尊厳を踏みにじり冒涜するかのような存在でもあり。
青白い肌をした人たちが組み合い、絡まり合っては形作られている大玉。
餓鬼玉と呼ばれるそれをひと目するなり、狐侍はかつて感じたことがないほどの嫌悪感を覚えた。
醜怪――。
そのひと言に尽きる。
これは……この大地に……この世界に絶対にあってはいけないもの……必ず滅すべき敵……。
ゆえに誅せんと向かおうとするも、意気込みとは裏腹に足が思うように進まない。
本能が拒絶しているのだ。忌まわしきものに近づくことを、触れることを。
それでもやらねばならぬ。
狐侍は懐から御札を取り出した。
するとその時のこと。
餓鬼玉の内側へと向いていた人体らの首が、一斉にぐりんと回ってこっちを見た。
あの世の因果、現世の理からはずれた慮外の瞳、瞳瞳、瞳瞳瞳、瞳瞳瞳瞳、瞳瞳瞳瞳瞳……。
とたんに全身が凍りついたかのようになって、狐侍は動けなくなってしまった。
何かをされたわけではない。呑まれたのだ。気を呑まれた!
まるで底なし沼のような視線にて、懸命に睨み返し、しっかりと気概を持って踏ん張ろうとすればするほどに、ずぶずぶと意識が沈んでいく。
ついにはうつむき膝を屈しかけた狐侍であったが、向けられる慮外の瞳の中に、ふと見知った顔があるような気がして、はっとする。
餓鬼玉の中に紅夜佗と麻霧らしき顔があった。
本物がどうかはわからない。たまさか似たようなのが混じっていただけなのかも。
しかし、真偽はどうでもよかった。
刹那、狐侍の中を駆け巡ったのは怒りである。
かつて抱いたことがないような憤り。命を賭して真正面からぶつかってきた者たちを、愚弄するかのような行為を目の当たりにして、狐侍の堪忍袋の緒がぷつりと切れた。
「ふざけるなぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!」
固まっていた体が動き、狐侍はひと息に餓鬼玉へと近づくなり、殴りつけるようにして巌然の御札を貼りつけた。
雑木林内に餓鬼玉の絶叫が鳴り響く。
青い血を流し身悶えする餓鬼玉が暴れ、どうにかして御札を剥そうとするも、させじと狐侍が小太刀を抜いた。
御札の上から突き入れられた小太刀が、深々と根元まで刺さる。
これにより御札はより盤石となり、餓鬼玉に逃れる術はなくなった。
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