狐侍こんこんちき

月芝

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其の三百四十九 残り香

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 血が冷え、固まり凍る。
 己の内に霜が降りたかのよう。
 不思議と痛みはない。
 が、苦しい。
 いや、これは苦しいというよりも辛いのか。
 押し寄せるのは寂寥、例えようのない孤独感に苛まれる。
 音が聞こえない。
 何も見えない。
 刻の感覚も失せた。
 世界から切り離されたかのようで、すべてが遠く。
 ゆらり、ゆらり……。
 暗い水底へと沈んでいく。

 さなかのことである。
 ふと鼻先を淡い香りがかすめたような気がした。
 甘く優しい香りは、早春の蝋梅(ろうばい)のものに似ている。
 とても心惹かれる匂いだ。
 いつの間にか、己が身に寄り添う何かがあった。
 ほのかなぬくもりを感じる。
 どこか懐かしい。それでいてほっとする。
 幼き頃に母の背におぶられていたことを思い起こさせるような。
 それが無性に心地良かった。

  ◇

 ぐにぐにぐに。

 顔に何かを押しつけられている。
 それが何であるのかを知っているはずなのだが、すぐには思い出せない。
 頭がうまく回らない。それよりもいまは眠気が勝っている。
 だから無視をしようとしたのだが、それを許さぬとばかりに急に息が苦しくなった。
 むにゅっという柔らかな感触にて、鼻と口をふさがれた?
 たまらず払いのけようとするも、おもいのほかにさらりとしており、その手触りの良さに驚いた。
 でも、自分はそれを知ってい――。

「ええい、気色の悪い手つきで撫でまわすな! いい加減に起きんか、藤士郎!」

 いきなり名前を呼ばれて、はっと藤士郎は瞼を開けた。
 とたんに目に飛び込んできたのは、自分の頭を前足でぐにぐに小突いている、翼を持つ巨大な黒銀虎の姿であった。

「へっ、あれ? 銅鑼じゃないか。どうしてここに……それに私はいったい……」

 江戸にいるはずの銅鑼がここにいる。
 今回の御家騒動の一件、銅鑼は旅について来ず、静観の構えをとった。
 銅鑼は基本的に人間同士のいざこざにはあまり首を突っ込まない。ちょっかいを出すのは、もっぱら妖や怪異絡みだけである。
 いつもいつも助けてくれるわけじゃない。
 その正体が伝説の大妖窮奇である銅鑼は、いかに家族同然の親しい間柄であろうとも、けっして甘えを許さない。最初から当てにして縋ろうとすれば、たちまちこれを突き放す。
 まぁ、それでもがんばっていれば、なんだかんだで助けてくれるのだけれども。

 我が身に起きたことを思い出そうとする。
 藤士郎は鎖で繋がれた刺客とともに滑落した。恐るべき執念であった。転げるままに渓流へと落ちたところまでは覚えている。だが、そこから先の記憶がない。
 見たところ、ここは川で生計を立てている者が休憩に使う掘っ立て小屋らしい。
 自分は褌一丁にて、脱いだ着物は近くにかけられてある。小太刀や身につけていた小物も無事である。
 屋内には火を焚いた形跡も残っていた。
 だから……。

「銅鑼が助けてくれたのかい?」

 と訊ねれば、銅鑼は「ちがう」と首を振る。

「おれじゃない。おれたちは、ついいましがた来たところだ」

 どうやら助けてくれたのは別の者のようである。
 だがその者の姿はどこにもなかった。
 いきなりあらわれた大虎に驚いて逃げたのか。あるいは河原者ゆえに助けたものの、それ以上の関わり合いを厭うたか。

 助けてくれたのは、おそらく女の人……。
 藤士郎はそんな気がしてしようがない。
 鼻の奥には微かな残り香があった。肌にもぬくもりが残っている。きっとみずからの体を使って温めてくれたのであろう。柔らかな感触は男のそれとはちがう。女性特有のもの……。

 いま一度、鼻で息をしてみる。
 しかし、もう残り香は感じられなかった。銅鑼が匂いに触れぬことからして、すべて失せてしまったのであろう。
 薄ぼんやりと消えた恩人に想いを馳せる藤士郎であったが、そこで遅まきながら銅鑼のうしろにいる存在に気がついた。

「よかった。九坂殿が無事で本当によかった」

 おいおい泣いていたのは長七郎である。
 そういえば銅鑼は「おれたち」と言っていたっけか。
 なんでも竜尾岳の上で藤士郎の名を呼びながらおろおろしているのを、銅鑼が見つけて拾ってきたんだそうな。
 とりあえず互いに無事でなによりである。


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