349 / 483
其の三百四十九 残り香
しおりを挟む血が冷え、固まり凍る。
己の内に霜が降りたかのよう。
不思議と痛みはない。
が、苦しい。
いや、これは苦しいというよりも辛いのか。
押し寄せるのは寂寥、例えようのない孤独感に苛まれる。
音が聞こえない。
何も見えない。
刻の感覚も失せた。
世界から切り離されたかのようで、すべてが遠く。
ゆらり、ゆらり……。
暗い水底へと沈んでいく。
さなかのことである。
ふと鼻先を淡い香りがかすめたような気がした。
甘く優しい香りは、早春の蝋梅(ろうばい)のものに似ている。
とても心惹かれる匂いだ。
いつの間にか、己が身に寄り添う何かがあった。
ほのかなぬくもりを感じる。
どこか懐かしい。それでいてほっとする。
幼き頃に母の背におぶられていたことを思い起こさせるような。
それが無性に心地良かった。
◇
ぐにぐにぐに。
顔に何かを押しつけられている。
それが何であるのかを知っているはずなのだが、すぐには思い出せない。
頭がうまく回らない。それよりもいまは眠気が勝っている。
だから無視をしようとしたのだが、それを許さぬとばかりに急に息が苦しくなった。
むにゅっという柔らかな感触にて、鼻と口をふさがれた?
たまらず払いのけようとするも、おもいのほかにさらりとしており、その手触りの良さに驚いた。
でも、自分はそれを知ってい――。
「ええい、気色の悪い手つきで撫でまわすな! いい加減に起きんか、藤士郎!」
いきなり名前を呼ばれて、はっと藤士郎は瞼を開けた。
とたんに目に飛び込んできたのは、自分の頭を前足でぐにぐに小突いている、翼を持つ巨大な黒銀虎の姿であった。
「へっ、あれ? 銅鑼じゃないか。どうしてここに……それに私はいったい……」
江戸にいるはずの銅鑼がここにいる。
今回の御家騒動の一件、銅鑼は旅について来ず、静観の構えをとった。
銅鑼は基本的に人間同士のいざこざにはあまり首を突っ込まない。ちょっかいを出すのは、もっぱら妖や怪異絡みだけである。
いつもいつも助けてくれるわけじゃない。
その正体が伝説の大妖窮奇である銅鑼は、いかに家族同然の親しい間柄であろうとも、けっして甘えを許さない。最初から当てにして縋ろうとすれば、たちまちこれを突き放す。
まぁ、それでもがんばっていれば、なんだかんだで助けてくれるのだけれども。
我が身に起きたことを思い出そうとする。
藤士郎は鎖で繋がれた刺客とともに滑落した。恐るべき執念であった。転げるままに渓流へと落ちたところまでは覚えている。だが、そこから先の記憶がない。
見たところ、ここは川で生計を立てている者が休憩に使う掘っ立て小屋らしい。
自分は褌一丁にて、脱いだ着物は近くにかけられてある。小太刀や身につけていた小物も無事である。
屋内には火を焚いた形跡も残っていた。
だから……。
「銅鑼が助けてくれたのかい?」
と訊ねれば、銅鑼は「ちがう」と首を振る。
「おれじゃない。おれたちは、ついいましがた来たところだ」
どうやら助けてくれたのは別の者のようである。
だがその者の姿はどこにもなかった。
いきなりあらわれた大虎に驚いて逃げたのか。あるいは河原者ゆえに助けたものの、それ以上の関わり合いを厭うたか。
助けてくれたのは、おそらく女の人……。
藤士郎はそんな気がしてしようがない。
鼻の奥には微かな残り香があった。肌にもぬくもりが残っている。きっとみずからの体を使って温めてくれたのであろう。柔らかな感触は男のそれとはちがう。女性特有のもの……。
いま一度、鼻で息をしてみる。
しかし、もう残り香は感じられなかった。銅鑼が匂いに触れぬことからして、すべて失せてしまったのであろう。
薄ぼんやりと消えた恩人に想いを馳せる藤士郎であったが、そこで遅まきながら銅鑼のうしろにいる存在に気がついた。
「よかった。九坂殿が無事で本当によかった」
おいおい泣いていたのは長七郎である。
そういえば銅鑼は「おれたち」と言っていたっけか。
なんでも竜尾岳の上で藤士郎の名を呼びながらおろおろしているのを、銅鑼が見つけて拾ってきたんだそうな。
とりあえず互いに無事でなによりである。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる