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其の三百二十九 下緒と陣笠
しおりを挟む山の森に生えている木、九坂家宅の大黒柱よりもよほど太くて立派なそれを、黒い矢はあっさり貫いた。
穿った穴からめきりめきりと生木が裂ける音がする。
木が倒れる!
巻き込まれまいと狐侍は飛び出しそうになるのを、すんでのところで我慢した。
敵は強弓と通常の弓を使い分けている。もしも驚いた野兎のごとく逃げれば、そこを早射ちにて狙われる。
ならばと、狐侍は左右ではなくてじりじりと後退り。
倒木の陰に隠れてうしろへ逃げることで、窮地を脱する。
だがしかし……。
「嫌なところに陣取っている。それに残りの牢人ふたりの動きも気になるね」
射手の目を逃れて隠れ潜む狐侍、気取られぬように細心の注意を払いながら、敵の様子を盗み見る。
強弓の遣い手は、森の中にある小岩の上にいた。
周囲は拓けており、あれならば大きな弓を振り回しても邪魔にならない。しかもちょっとした高台になっており、近づくにはでこぼこの斜面を駆けのぼらねばならない。
頭上を取られた格好だ。攻めるに難く守りに易い立地。射手にとっては最適の場所であろう。
木の陰伝いに隠れながら接近したとて、寄れるのはせいぜい手前のところまで。そこから先は向こうから丸見えとなる。残りの距離はだいたい六間半から七間といったところか。
相手はもちろんこちらの動きを警戒している。
それこそ鷹の目となって周囲を睥睨していることであろう。
射手は総じて目がいい。遠くの的や動く相手を狙うのだから当然だ。卓越した遣い手ともなれば、つねの比ではない。
そんな難敵の目を掻い潜って接近する。
困難極まれり。
「いっそのこと無視して逃げるべきか」
奴を一人角力にてこの場に釘付けにしているうちに、残りの牢人者らを仕留めて、長七郎を連れて逃げる。
いい考えにおもえたが狐侍はすぐに首を振った。
「……いや、だめだ。ここで確実に仕留めておくべきだ。後回しにしたら、たぶんもっとやっかいなことになる」
長七郎を狙う刺客が奴だけとは限らない。
他の敵と戦っているときに、背後から矢を射かけられてはたまらない。
奴はここで倒す。
意を固めた狐侍、その脳裏をちらりとかすめたのは長七郎のこと。あの若者も武士の子なので、ひとしきり武芸の稽古は積んでいるようだが、端々の様子から察するに、たぶん喧嘩もろくにしたことはないだろう。
牢人者らに見つかったら、たやすくひと捻り。
その前に決着をつける必要がある。
狐侍は小太刀の鞘から下緒(さげお)をしゅるりと抜いた。
◇
強弓を手に、小岩の上に陣取っている射手。
眼光鋭く、構えに一分の隙もなく。整然と佇む様は彫像のようにて、見惚れるほどに美しい。
武の極致へと辿りついた者だけが纏う慄然さが、雨の森の中で圧倒的なまでの存在感を放っていた。
張り詰めた空気、命のやりとりの場に漂う特有の緊張感の中――
不意にがさりと音がした。
すかさず鏃(やじり)が音のしたところをぴたりと捉える。
淀みのない流れるような動きにて、一切の迷いもぶれもない。
しかし、射手がそちらを向いた瞬間に、反対側から踊り出る影があった。
狐侍である。左手には脱いだ陣笠を持ち、右手には拳ほどの石がくくられた下緒を握っており、これをひゅんひゅんと振り回していた。
接敵、足場の悪い斜面を全力で駆けあがる。
足音や気配を消す余裕はない。
そのせいですぐに気取られた。射手が反転し、こちらを向く。
その頃合いで放たれたのは、狐侍の右手にあった下緒であった。手持ちと森の石でこさえた即席の投石紐だ。
勢いをつけてぶぅんと投げつける。
狙うは相手の顔面、ふたつある目のうちのどちらか、もしくは額でも切れて血が流れれば、めっけもの。あるいは弓で払うことで、大きな隙が生じればとの期待もあった。
だが、狐侍の目論みはどれもはずれる。
射手は足腰の動きだけで、ひょいとしゃがんで投石紐をかわしたばかりか、そのまま片膝をついて矢を放ったからである。
この時点で互いの距離は四間ほどまでに縮まっていたが、まだ遠い。
射線上でふたりの目が合い、殺意が交差する。
弦鳴りがして、射られた黒い矢が猛然と狐侍の胸元へと迫る。
突進しているさなかのこと、とてもかわせない。
だから狐侍は左手の陣笠を盾のようにかざした。
竹で網代を組んで和紙を貼り、墨で染めて柿渋を塗って作成された武士用の陣笠は、ただの日除けや雨具ではない。ちょっとした刃や飛来する矢などから身を守る防具であり、戦のときには盾として使われていたのである。
とはいえ相手は太い生木をたやすく貫く強弓だ。こんなものは障子の紙ほどの抵抗にもなるまい。
ゆえにそんなもので防ごうとした狐侍に、射手の男は嘲りの笑みを浮かべた。
でもその顔はすぐに驚愕へと代わる。
矢がぶすりと陣笠に刺さり、鏃の先端が貫こうとした刹那、狐侍は左手をぐいと外へそらす。これにより矢の軌道が陣笠ごと外へとわずかに流れた。
絶対に矢をはずさない間合い、かわせないはずの距離、信じた己が勝利、それを土壇場でくつ返された。
さしもの弓の達人も、これには動揺を隠せない。
この時点で互いの距離は二間にまで縮まっていた。
ぐんと踏み込む足に力を込めて、ひときわ大きく踏み出した狐侍の身が、いっきに相手の眼前へと踊り出るのと同時に、愛用の小太刀・鳥丸が閃いた。
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