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其の三百二十八 黒い矢
しおりを挟む駆け抜けざまに逆手に持った刃を振るう。
狙いすました一閃が首筋を薙ぐ。
あがった血飛沫を横目に、さっと近くの木の陰へと入っては、身を低くして地を這うように素早く移動する。そして次の獲物へと。
仲間の異変に気がつき慌てて駆けつけてきた者を、斜め後方の死角から強襲する。
脇腹に小太刀を突き入れ、肋骨の裏を抉り、切っ先にて心の臓を貫く。
たちまち瞳から命の輝きが失せた。
ふたりを続けて屠り、残りの牢人者はふたり。
「――っ!」
その時のことである。
狐侍は雨の森の底に聞こえる異音に気がついた。
きちり、きちり、きちり、きりきりきりきり……。
弦を思い切り引き絞る音。
それが弓であることは狐侍にもすぐにわかったのだが、直後に鳴った音が理解の範疇を超えていた。
きりきりきりきり…………、ばんっ!
一拍置いて生じたのは鋭い炸裂音であった。
溜め込まれて膨れあがった殺気がいっきに解き放たれる。
明確なる殺意が、猛然と自分に向かってくる。
ばっと反射的にふり返った狐侍は肉迫する敵の正体を知る。
それは黒い矢であった。
先ほど射かけられた矢とは別物だ。大きい。長さだけならば短槍ほどもあろうか。そんな代物が降り注ぐ雨をものともせずに切り裂き飛んでくる。
牢人者に突き入れた小太刀を引き抜いている余裕はない。
狐侍はとっさに自分と殺めたばかりの相手との身を入れ換え盾とする。
直後にどんっ、強い衝撃を受けて狐侍は肉の盾ごと押し倒された。
「あ痛たたた。ったく、なんて出鱈目な威力だよ。まるで暴れ牛に撥ねられたみたい――なっ!」
顔をあげた藤士郎は絶句する。
目に飛び込んできたのは、無惨な光景。自分と一緒になって倒れていた骸なのだが、その鎖骨の辺りから上の部分が千切れてごっそり失せていたからである。
消えた残りは背後の離れた木の幹に矢で深々と縫い留められていた。
なんという威力……、とんでもない強弓だ!
あんなもの、かすっただけでも肉や骨が抉れて致命傷になりかねない。
まさか襲撃の首謀者がこんな隠し玉を持っていたとは――。
身を伏せたまま狐侍が矢の飛んできた彼方を睨めば、十尺はあろうかという巨大な弓を持つ男の姿があった。
にしても解せない。
男の見た目は中肉中背にて、長身痩躯な狐侍よりも小ぶりだ。
だというのに自分よりもずっと大きな弓を手にし、どうやって矢を放ったというのか。
疑問の答えはすぐに判明する。
男がふたたび弓に黒い矢をつがえ始めたからである。
十尺の巨大弓を斜めに構えたのは高さを減らすための工夫だろう。鬼のような巨漢でもないかぎりは、あの弓をまともに縦にはかざせない。
だが問題は矢の方だ。大きく長い矢を放つには、ぐんと思い切り弦を引き絞る必要がある。固く張られた弦をどうやって存分に引くというか。
男が弓を引く動作は、途中までは通常の所作と同じ。
だが矢を持つ方の腕の動きがおかしい。
ふつう弓は足踏み、胴造り、弓構え、打起こし、引分け、会(かい)、離れ、残心という射法八節にて一連の動作を行う。
問題は弦を引いて矢を放つ寸前である会の動作のところ。
胸郭を大きく反らし開いた状態なのだが、それがさらに広がる。
自分の耳の辺りで止めるはずの矢の持ち手が止まらない。ばかりか折りたたむようにして閉じられていた肘がじょじょに開いていく。
この状態、射手を横から見れば、両腕を目いっぱい広げているかのようになっている。
肘が伸張したぶんだけ、弦がよりうしろに引き絞られる。
弓道の常識を覆す方法、これこそが強弓にてあれほどの威力の矢を放つ秘密であったのだ。
理屈こそは簡単だ。
だが実際にやるのは至難の技であろう。
あれはとても不安定な状態だ。並の遣い手ではまっすぐ矢を飛ばすことも出来まい。
それを実戦の域で難なくこなしている。
尋常の遣い手ではない。
遺体から小太刀を引き抜いた狐侍は、いったん身を隠すべく近くの木の裏へと隠れた。
直後に第二射が放たれる。
轟っという風切り音にて、ふたたび迫る黒い矢。
狐侍はぞくりと寒気を感じて、とっさにしゃがみ込む。
それに遅れることほんのわずか、めきりと生木が裂ける音がして木の幹を矢が貫通したもので「なっ!」
狐侍は大きく目を見開き、ぽかんとなった。
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