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其の三百十九 二柱 水
しおりを挟む天井近くにある明かりとり用の小窓がそっと閉じられた。
開け放たれてあった入り口の観音扉も静かに閉じられる。
とたんに暗くなる蔵の中――だが完全な闇ではない。
老朽化にて出来た隙間から光が幾筋も差し込んでおり、おもいのほかに屋内は明るい。
かとおもえばそれもじきに途絶え、真の暗闇となった。
堂傑の仕業だ。彼が操る多数の式神たちが群れとなり蔵の周囲を飛んでは、自身を張り付かせることにより、穴を次々と塞いでいく。
闇の中に猫の目が光る。
銅鑼だ。金色の瞳が右から左へ、すーっと動く。
視線が向けられたのは蔵の奥の方である。
ぺちゃり、ぺちゃり、ずずず……。
聞こえてくるのは水を舐め、啜り呑む音。
白の「お犬さま」だ。棒手振りに扮した藤士郎に誘われ、ここまでやってきたところで見つけたのは、やたらといい匂いをさせている大桶である。中にはわざわざ熊野神社から汲んで運んできた「おくまんだしの水」がたんまり入っている。
すっかりお気に召したらしく、白の「お犬さま」は大桶に顔を突っ込んでは夢中になっている。
扉脇の暗がりにて身を伏せていた藤士郎は、懐にしのばせていた蝋燭と火種箱を取り出した。
暗闇の中に蝋燭の明かりが灯る。
これを蔵の奥、音がする方へとかざすと、見えてきたのは白の「お犬さま」の正体であった。
「これは!」
「なんと!」
「ふんっ、そういうことだったのか。どおりでわからぬはずだ」
藤士郎と堂傑は絶句し、銅鑼は独りごちる。
夜陰に滲み溶け込む黒い獣のような姿であった黒の「お犬さま」は、がっちり肉厚であったのに対して、白の「お犬さま」の姿はとても薄かった。
それこそ紙や女人の髪の毛よりもなお細い。それでいて蝋燭の明かりを受けると、きらりと光る。つるつるに磨かれた鏡のような体表が、周囲の景色を取り込んでは映し出す。
正面から見れば大きな狼のような形状をしているが、横から見たら線となる。こうなるとどれだけ目を凝らそうとも細すぎてわからない。
この身体的な特徴を活かして、白の「お犬さま」は周囲にまぎれ込んでいたがゆえに、誰にも見咎められなかったのである。また薄い体ゆえに、ほんの少しでも隙間があれば、そこから潜り込める。ばかりか身をぐにぐによじることにより、こよりのようになれるからやっかいだ。
大妖である銅鑼の厳しい目をも掻い潜るほどの隠形の術。
いったん見失ったら、まず見つけることは出来ないだろう。
だからこそ、なんとしてもここで回収せねば――。
「というわけで、あとは頼みましたよ、堂傑さん」
「にしし、お手並み拝見といこうか」
藤士郎と銅鑼が手を貸せるのはここまで、あとは堂傑の説得にかかっている。
これまでの行動から、白の「お犬さま」は狂暴な性質ではなさそうなので、藤士郎はさして心配はしていなかったが、それでも話がまとまるまでは緊張した。
黒の「お犬さま」の時と同様に人化けの術を解く。
姿を偽ったままでは、相手に胡乱がられ、いらぬ警戒を抱かせるからだ。
堂傑は鼬頭の僧侶姿となってから、静かに近づき平伏し、滔々と事情を語り、裏札を恭しく差し出す。
すると大桶の中身を飲み干し満足したのか、白の「お犬さま」は「けふっ」と可愛いげっぷをしてから、みずから進んで御札の中へと戻っていった。
一同、ほっとして安堵の笑みが零れる。
かくして二柱目の確保にも成功した。
残りはあと一柱のみ。だがしかし……。
「問題はその三柱目なんだよねえ」
藤士郎は悩まし気にぼそり。
じつは最後の「お犬さま」は、正体も消息も完全に不明なのである。
すでに六兵衛長屋を飛び出しており、どこかに行ってしまっている。戻ってきた形跡もない。ゆえに好みやら習性も皆目わからない。
手がかりはなく現状はお手上げ。
堂傑が式神を方々に飛ばしては、行方を探させてはいるけれども、いまのところはまだ尻尾の影すらも掴めていない。
藤士郎や銅鑼も猫又らの伝手を頼って、江戸市中にてそれらしい目撃情報なり、怪しげな出来事なりが起きていないか当たってもらっているが、こちらも今のところはなしのつぶて。
そうしているうちにも時間ばかりが無為に過ぎていく。
あまり世俗に放置していると「お犬さま」が穢れて、荒神になってしまうというのに……。
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