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其の三百十四 お犬さま
しおりを挟む床板の爪痕――。
ひと目するなり堂傑は顔をしかめて「狼のものです」と断言した。
だがそれだと、やはりおかしい。
ここ六兵衛長屋は日当たりも風通しもよく、二間続きに押し入れまである。長屋としてはなかなか上等な部類だ。
とはいえ、しょせん長屋は長屋である。壁の厚さはたかが知れている。住人同士の距離も近い。動物なんぞを飼っていたら、ご近所さんにたちまち気づかれるはず。
「はて、狼どころか猫の子一匹でもばれそうなものだけど」
藤士郎が小首を傾げている一方で、堂傑はさっそく押し入れにあった行李を検めている。
筮竹(ぜいちく)に八角形の手鏡、亀甲、八卦の木札、占いの指南書である「易経(えききょう)」などなど。
それらの占いの道具の下に隠されるようにしてあったのは、紫の袱紗(ふくさ)の布に包まれた狼の頭蓋骨、爪や牙などが入った錦の巾着袋もある。布も袋も上等な代物だ。故人がこれらの品をとても大切にしていたことが伺える。
それらを恐々(こわごわ)調べつつ、次に堂傑は文箱へと手をのばした。
開けてみると、たくさん御札が入っている。各地を巡って集めたらしい。
三峰神社、武蔵御嶽神社、武甲山御嶽神社、宝登山神社、椋神社(むくじんじゃ)、両神神社、山住神社、中山神社、金峯神社、山津見神社……。
どこも狼信仰で知られた神社ばかりだ。
狼は人々に恐れられる反面、その強さゆえに敬われてきた。
田畑を荒らす害獣を追い払ってくれるので農業の守護獣とされ、また獣を払うことから狐や貉(むじな)に憑かれたものを祓うとも考えられており、火の気や泥棒などをいちはやく察しては吠えて報せてくれたりもする。
だから農業の守護、火伏せ、盗難除け、憑き物落としなどにご利益があるとされてきた。
とはいえ、これはいささか多すぎるだろう。
行李の中に納められていた品々は、明らかに個人の信仰の域を逸脱している。
「どうやら三葉さんという方は、占いだけでなく呪(まじな)いの類も生業としていたようですね」
と堂傑。
人当たりがよく、みなから慕われていたという老婆の裏の顔。
藤士郎はぞっとして、ちょっと後退り。
けれども堂傑は苦笑いにて、こう付け足した。
「もっとも、あまり性質の悪い呪いはしていなかったようですが」と。
堂傑の前身は陰陽師くずれである。
自身はあまり優れた術者ではなく、使える術もたったの三つだけであったのだが、それでもひとしきり知識は持っている。だからこそ、すぐに老婆の秘密に気がついた。
「呪いといっても、意中の相手にちょっと気にかけてもらうとか、恋の成就を願うとか、失せ物を探すとか、安産祈願や、浮気者の亭主をこらしめたりと、いいお呪いですよ」
可愛いものだとわかって、藤士郎は「なぁんだ」と安堵する。
だが御札を検めていた堂傑の手が止まり、急に黙り込んでしまう。
「どうかしたのかい?」
心配になった藤士郎が声をかけると、堂傑はぎぎぎとふり返り「……ちょっとまずいかも。このままだと大変なことになる」と頬をひきつらせた。
堂傑が顔を青くして震えている。その手にあったのは、三峯神社の御札であったのだけれども、それがただの御札ではなかった。
一般的に配られている表の札ではなくて、裏の札。
三峰神社から御眷属様を借り受けるための御札であったのである。
いわば契約書のようなもの。これを祀ることで守護を受け、様々な恩恵を得られる。
ただし、御眷属様を借り受けられる期間は一年と定められている。一年経ったら御山に還す慣わし。
なにせ人心は色と欲に塗れており、世俗はたいそう穢れている。
そんな中で、仕える主を厄災から守り続けることは、いかに御眷属様とて容易ではない。だから山に戻って身に染みついた穢れを落とす。これを怠れば、穢れに蝕まれてしまい、ゆくゆくは「はぐれ」に堕ちて、荒神と成り果てる。
この御眷属様を「お犬さま」といった。
狼なのに犬?
などという細かいことはどうでもいい。
問題なのは、三葉の婆さんが借りた「お犬さま」を返却する前に、急逝してしまったこと。
これにより仕えるべき主人を失った「お犬さま」は、山に還ることもできずに、そこいらをうろついている。
しかも一柱だけでなく、三柱も!
どうして数がわかったのかといえば、裏の札が三体もあったから。
一度にこれだけの数を拝借できるとは、三葉の婆さんは神社側からよほど信頼されていたようだ。もしかしたら親類縁者なのかもしれない。
「えーと、堂傑さん。もしも還すのが間に合わなかったら、どうなるのかしらん?」
「――野生化します」
「なっ!」
それすなわち、江戸市中に野良神狼が解き放たれるということ。
えらいことになったと、藤士郎は天を仰ぐ。
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