狐侍こんこんちき

月芝

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其の三百十二 六兵衛長屋の変

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 夜更けのことだ。
 処は神田にある六兵衛長屋にて。
 住人の男が安酒を呑んでいい心持ち、ぐうすか高いびきをしていたら、がさごそがさごそ……それに混じって、ばりぼりという音もする。土間の方からだ。鼠や猫にしては音が大きすぎる。まるで人が何かを漁っているかのよう。
 だから住人の男は、てっきり泥棒かと思った。
 けれどもお生憎さま。こちとら一人角力(ひとりすもう)を生業としているもので、銭なんざ稼いだはしから呑んじまう。家の中にはろくなものなんぞありゃしない。
 ちなみに一人角力とは、角力の取り組みをひとりで真似て演じる芸のことだ。客は勝たせたい方の力士に銭を払い、その集まりが多い方を勝たせる。住人の男の芸はいまひとつにて、人気も稼ぎもそれなりである。だからとて一人角力の芸を侮るなかれ。名人と囃される優れた演者ともなれば、本場所ほどもの見物客を集めておおいに沸かせるのだから。
 まぁ、それはさておき。

 盗られて困るようなものは何もない。
 住人の男はそのうち諦めていなくなるだろうと、無視して狸寝入りを決め込む。
 だというのに、なかなか出ていかない。
 あいかわらず、がさごそ、がさごそ……。
 こうなると、どうにも鬱陶しくてかなわない。
 さすがに苛立ってきたもので、ついにむくりと起きては「やい! いい加減にしねえかっ」と一喝する。外で客たちを相手にして芸を披露しているだけあって、住人の男の怒鳴り声はよく通る。
 が、次の瞬間、それは「うひゃーっ!」という悲鳴に変わった。

 怒鳴られ、相手が顔をあげてこちらを見れば、ぎろりと光るふたつの目にて、耳まで裂けた大きな口からのぞくのは鋭い牙たち。ちろりと赤い舌が這っては口のまわりをぺろりとする。
 土間にいたのは黒い狼のような獣であった。にしても大きい、小熊ほどもあろうか。
 黒い獣が熱心に漁っていたのは、買い置きしてあった炭であった。

 ばりぼりばりぼりばりぼりばりぼり……。

 炭を頬張りながら、獣がにたりと笑う。
 住人の男は悲鳴をあげ這う這うの体にて、家の裏手から逃げ出した。

  ◇

 炭を喰らう黒い獣があらわれた!
 話を聞いた長屋の者らは「おおかた酔っ払って、変な夢でもみたんだろう」とまともに取り合わなかった。
 けれども、その騒ぎがおさまらぬうちに、またしても奇妙なことが六兵衛長屋で起きた。
 それも白昼にである。

「あれ? おかしいわね」

 首を傾げたのは長屋に住んでいる、とある一家の女房だ。
 そろそろ夕餉の支度をしようかと、水瓶の蓋を明けたのだが、中身がほとんど残っていない。
 朝のうちに子どもらに手伝ってもらって、井戸から汲んで瓶いっぱいにしてあったというのに。夏の盛りならばともかく、あまりにも減りが早や過ぎる。
 ひょっとしたら水瓶にひびでも入っているのかと、確かめてみたがどこにもそれらしい傷は見当たらなかった。
 旦那は仕事に出ておりまだ帰っていない。子どもたちに「誰か、水を使ったのかい?」と訊ねれば、みな「知らない」と首を横に振る。その様子に嘘はなさそう。

「いやだよ、なんなんだろうねえ、いったい」

 女房はぶつくさ文句を言いつつも、水を汲みに長屋の井戸へと向かったのだが、そこでご近所さんらとばったり出くわす。
 みな手桶を持っている。水を汲みにきたのだ。
 井戸端なのでなんら不思議ではないのだけれども、朝ならばともかく昼間のこの時分には、あまりないことである。

「まさか、おたくも?」
「ええっ! そっちもなの」
「うちも、水瓶が空になっていたものだから」

 どこの家も水瓶の中身がいつのまにやらごっそり失せていた。
 互いに顔を見合わせて、女房たちはまるで狐につままれたようになった。

  ◇

 ここのところ長屋で奇妙な出来事が頻発している。
 住人たちからは「なんとかしてくれ!」とやいのやいの責められ、噂が広がってご新規さんはさっぱり寄りつかず。まだ逃げ出す者は出ていないけれども、このままでは時間の問題であろう。
 近所からも胡乱げな目を向けられて、町名主からも「おいおい、うちの町内で悪い噂が立つのは困るよ」とちくりと嫌味を言われ、差配役はすっかり弱ってしまった。
 じつはまったく心当たりがないわけではなかったのである。さりとて自分の手にはとても負えそうにない。
 だから知念寺の巌然和尚へと相談するも、巌然はその時、別の案件に関わっており長屋に出向く余裕がなかった。そこで弟子の堂傑を差し向けることにしたのだが……。

「どうして私まで」

 唇を尖らせていたのは九坂藤士郎である。
 巌然が可愛い弟子の初陣に際して、念のためにと狐侍をお供につけることにしたのだ。「いささか過保護ではないのか」とやんわり抗議した藤士郎であったが、血祭り炎女事件の時のことを言われては無碍にも断れず、結局付き合うことになってしまった。

「自分が不甲斐ないばかりに、九坂さまにまでご足労をかけてしまって、あいすみません。」

 へこへこ頭を下げる堂傑に、藤士郎は慌てて手を振る。

「いやいや、そんなことありませんよ。堂傑さんは立派にやっておられますから」

 実際、初めて会った頃と比べたら、まるで別人のように立派に……というか、ごつくなっている。これも知念寺での修練の賜物なのだろう。
 そして曲りなりにも自分の名代として遣わすということは、巌然が堂傑を認め期待しているということ。
 堂傑の術には藤士郎も何かとお世話になっており、手伝うことはやぶさかではない。
 ただちょっと気になるのが、わざわざ自分を堂傑に付けたこと。
 ひょっとしたら巌然は、今回の一件、ひと筋縄ではいかないと予見していたのかもしれない。
 だとすれば油断せぬほうがいいだろうと、藤士郎は己をこっそり戒めた。


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