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其の三百三 冥婚
しおりを挟む書物問屋の銀花堂は、書物関連のことはひと通り手広く商っている。
買い付けもそのひとつである。
その日、若だんなは馴染み客の親族より頼まれて、根岸へと赴いていた。
上野の山の北東にある根岸の辺りは、文人墨客の集う風雅な土地にて、大身の武家や大店の主人など、懐具合に余裕のある者が構えた別宅などが多く集まっていた。
銀花堂の馴染み客はさる大店のご隠居で、店を息子夫婦にまかせたあとは根岸の寮に引っ込んで読書三昧の日々を過ごす。ご隠居は堅苦しい内容は好まず、無類の黄表紙好きであった。
そんなご隠居が亡くなった。立ち上がった際に「あっ」とつぶやいたとおもったら、こてんと倒れてそれっきり。卒中であった。享年七十八、まあまあの大往生であろう。
かくしてご隠居が住んでいた寮も引き払われることになったのだが、始末に困ったのが大量の黄表紙である。
暇と金にあかせて片っ端から買い求めた書物は膨大にて、寮の部屋ばかりか、廊下にまで積んであるほど。
いっそのことこのまま店をやればいいと、ご隠居が元気な時分に若だんなが冷やかせば、ご隠居も「そいつはいいや」と満更でもない笑顔をみせていたのだけれども……。
生前、ご隠居が銀花堂と懇意にしていたこともあり、若だんなに残された書物たちの始末が任されることなった。
整頓がてら目録をつくり、自分のところで引き取る品と余所に流す品を選り分け、希少な品は遺族に相談し……量が相当あるので、何度も先方に足を運ぶことになるだろう。
だがそんな作業が苦にならないのが書物狂いである。
むしろ好きな物に囲まれて、存分に戯れられるのだから、通うのが楽しみなほど。
よってご隠居の寮へと向かう若だんなの足取りはとても軽かった。
◇
ご隠居が残した黄表紙の多いこと、多いこと。
いっそ蔵でも建てて、まるごと放り込めばいい。
というほどもある。
よくもまぁ、個人でこれだけ買い求めたものだと若だんなも呆れるやら、感心するやら。
それでも楽しく片付けをしていたのだけれども、書物の山を崩していくうちに、底の方から出てきたのが古ぼけた行李である。
四方が一尺半ほどの大きさ、中には一冊の書と木箱が入っていた。
書の題目は「冥婚人形」とある。
冥婚とは――。
生者と死者とで婚姻を結ぶこと。
未婚の死者を弔うための儀式にて、独り身では寂しかろうと、婚礼を見立て、夫婦にした後にあの世へ送り出す。
結婚してこそ一人前、半人前のまま送り出すのは不憫だろうという親心から生まれた風習とも云われている。
形は違えども、古くから各地で似たようなことが行われており、北は弘前藩の方には、未婚の死者の婚礼を描いて寺に奉納する「ムカサリ絵馬」なる風習がある。なおムサカリとは「迎えられ」からくる方言である。
ざっと書に目を通し、若だんなはふむふむと独りごちる。
冥婚人形とは、ようはその絵馬の代わりに人形を使う儀式のようであった。
「……なるほど。と、いうことはこっちの箱にその人形が入っているんだね」
ぱかっと蓋をはずせば、中にはおきゃんそうな面立ちの市松人形が入っていた。
「おや、なんと愛らしいこと。これが冥婚人形だね。由来の品と書との組み合わせというのは面白い趣向だけど、はてさて、どうしたものやら」
人形を手にとりしげしげ眺めながら、若だんなは思案する。
書物問屋としてはたいそうそそられる品だが、あいにくと人形の目利きは門外漢である。
見たところ素人目にも人形の出来はよい。さぞや名のある職人がこさえた物であろう。だとすればきちんと価値のわかる者に視てもらうのがいい。
だから人形と書を元通りに行李に納めて、若だんなはいったん持ち帰ることにしたのだけれども、その夜のことであった。
いつものごとく、書を読みながら寝落ちした若だんなであったのだが、その耳に聞こえてきたのが、がさがさがさ……。
枕元にてなにやら物音がする。
「すわ、鼠か!」
紙を食う虫の紙魚(しみ)と鼠は書物問屋の大敵である。
大事な書をかじられてはたまらないと、若だんなは跳ね起きた。
けれども、そこに居たのは鼠なんぞではなくて、見覚えのある人形であった。
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