293 / 483
其の二百九十三 五の炎 二恨坊の火 中編
しおりを挟む平田夫妻のたっての願いにより、敢行された七日七晩にも及ぶ祈祷のかいあって、お久は目に見えて元気になった。
医師からも「この様子ならば、あとは滋養のつくものを食べて、少しずつ体力を取り戻せば、ゆくゆくは本復するだろう」との太鼓判を貰う。
夫婦は涙ながらに二崑坊に感謝する。
だが当の二崑坊は祈祷を終えると、「どうぞゆるりとご逗留ください。ぜひともお礼をさせて欲しい」という源兵衛の申し出を固辞し、数日後にはそそくさと東へと向けて出立してしまった。
べつにやましいことがあったからではない。
長逗留をすれば、きっと煩わしいことに巻き込まれると、美僧は過去の経験から学んでいたからである。それに自分のせいでいらぬ波風を立てては、せっかく回復したお久や、それを喜ぶ源兵衛に悪いとの配慮もあった。
だがこの二崑坊の配慮がかえって疑念の種となろうとは、さしもの美僧も思いもよらなかった。
二崑坊が去ったのち――。
お久は日に日に元気になっていく。それにともない、ますます綺麗になった。これまでの分を取り戻すかのようにして、積極的に家事を手伝い、率先して表にも出るようになった。
また二崑坊を通じて仏のありがたさを改めて知ったことで、信心がいっそう深くなり、離れの一室に仏像を置いては、朝に夕に、熱心に拝むようになる。
愛妻が元気になったことを夫の源兵衛も喜んだ。
けれども、それと同時に内心では複雑でもあった。
うれしいはずなのに、望んだことなのに、いざ幸せが手に入ってみると、胸にふつふつと湧いてくるのは真逆の感情である。
源兵衛にしてみれば、ずっと大切にしていた懐の窮鳥が飛び出してしまったかのように感じていたのである。
じつは当人にも自覚はなく、周囲も、一番近くにいる妻ですらもが気づいていなかったのだが、源兵衛という男の愛情は歪んでいた。
美しく病弱な妻を守り、甲斐甲斐しく世話を焼くことで、良き夫を演じ、周囲から向けられる同情や注目、賞賛や尊敬などを浴びることで、己の身の内に潜む醜い心獣を満足させていたのである。
だが餌は断たれた。
これにより、ずっと潜んでいた醜い心獣がむくりとかま首をもたげるまでに、さして時間はかからなかった。
二崑坊はそんな源兵衛の危うさに薄々気がついていた。だからこそ下手に刺激をしないように、急ぎ旅立ったのであった。
各地を行脚し、修行に勤しむうちに、一年二年と時は瞬く間に過ぎてゆく。
ゆえに二崑坊も油断した。
「さすがにもうほとぼりも冷めたであろう」
なにせ高槻という土地は京の都から西国へと抜ける玄関口にあたる場所である。
陸路にて西国へと向かうには、どうしても通らねばならぬ。
ひとしきり東を行脚したので、次は西を巡ろうと考えた二崑坊は、さっさと高槻を通り過ぎようとした。
だが出来なかった。
どこで聞きつけたのか、街道にて源兵衛が待ちかまえていたのである。
「素通りだなんんて水臭いじゃありませんか、二崑坊さま。大切な恩人をみすみす行かせてしまっては平田源兵衛の名が廃るというもの。さぁさぁ、どうぞ我が家にお越しください。妻もきっと喜びます」
源兵衛はにこりと笑顔で深々と頭をさげる。
にゅうと細めた目の奥に妖しい光が宿っているのを前にして、二崑坊は自分の考え違いを悟る。
数年を経たのでもう大丈夫?
とんでもない。その逆であった。歳月を重ねることで、より深く想いが煮詰まり醸造されている。二崑坊はぶるりと身を震わせた。
断わり切れずに押し切られた。
源兵衛に案内されるままに彼の村へとやってきた二崑坊、歩きがてら見た限りではとくにおかしなところは見受けられないので、ほっとする。
だがしかし、庄屋の屋敷が見えてきたところで二崑坊は、ぎょっ!
そ画だけが濃い瘴気に包まれているかのようになっていたからである。
妖炎怪忌、あまりの禍々しさに二崑坊は立ち止まる。すぐにきびすを返して逃げ出したかった。だが背後にはそれを許さぬとばかりに、源兵衛が立つ。
そして二崑坊がまごまごしているうちに、前からお久があらわれた。
すっかり健康を取り戻し、以前よりもずっと美しくなったお久が、喜色を浮かべて駆け寄ってくる。
その姿はまるで長旅に出ていた恋人を迎える女のよう。
だからとて、お久は美僧に対して邪な気持ちを抱いていたわけではない。お久の胸の内にあったのは深い尊敬と憧憬である。
門前にて「いまか、いまか」とそわそわしていたところに、待ち人来たる!
つい飛び出してしまったのであった。
二崑坊は表面上はにこやかな笑みにて「お久どのも、すっかり本復したようでなにより」と挨拶に応じるも、法衣の下ではじっとり厭な汗が止まらない。
なぜなら背後から向けられる、源兵衛からの突き刺さるような視線をずっと感じていたからである。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

高槻鈍牛
月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。
表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。
数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。
そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。
あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、
荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。
京から西国へと通じる玄関口。
高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。
あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと!
「信長の首をとってこい」
酒の上での戯言。
なのにこれを真に受けた青年。
とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。
ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。
何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。
気はやさしくて力持ち。
真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。
いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。
しかしそうは問屋が卸さなかった。
各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。
そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。
なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる