狐侍こんこんちき

月芝

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其の二百九十三 五の炎 二恨坊の火 中編

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 平田夫妻のたっての願いにより、敢行された七日七晩にも及ぶ祈祷のかいあって、お久は目に見えて元気になった。
 医師からも「この様子ならば、あとは滋養のつくものを食べて、少しずつ体力を取り戻せば、ゆくゆくは本復するだろう」との太鼓判を貰う。
 夫婦は涙ながらに二崑坊に感謝する。
 だが当の二崑坊は祈祷を終えると、「どうぞゆるりとご逗留ください。ぜひともお礼をさせて欲しい」という源兵衛の申し出を固辞し、数日後にはそそくさと東へと向けて出立してしまった。
 べつにやましいことがあったからではない。
 長逗留をすれば、きっと煩わしいことに巻き込まれると、美僧は過去の経験から学んでいたからである。それに自分のせいでいらぬ波風を立てては、せっかく回復したお久や、それを喜ぶ源兵衛に悪いとの配慮もあった。
 だがこの二崑坊の配慮がかえって疑念の種となろうとは、さしもの美僧も思いもよらなかった。

 二崑坊が去ったのち――。
 お久は日に日に元気になっていく。それにともない、ますます綺麗になった。これまでの分を取り戻すかのようにして、積極的に家事を手伝い、率先して表にも出るようになった。
 また二崑坊を通じて仏のありがたさを改めて知ったことで、信心がいっそう深くなり、離れの一室に仏像を置いては、朝に夕に、熱心に拝むようになる。

 愛妻が元気になったことを夫の源兵衛も喜んだ。
 けれども、それと同時に内心では複雑でもあった。
 うれしいはずなのに、望んだことなのに、いざ幸せが手に入ってみると、胸にふつふつと湧いてくるのは真逆の感情である。
 源兵衛にしてみれば、ずっと大切にしていた懐の窮鳥が飛び出してしまったかのように感じていたのである。
 じつは当人にも自覚はなく、周囲も、一番近くにいる妻ですらもが気づいていなかったのだが、源兵衛という男の愛情は歪んでいた。
 美しく病弱な妻を守り、甲斐甲斐しく世話を焼くことで、良き夫を演じ、周囲から向けられる同情や注目、賞賛や尊敬などを浴びることで、己の身の内に潜む醜い心獣を満足させていたのである。
 だが餌は断たれた。
 これにより、ずっと潜んでいた醜い心獣がむくりとかま首をもたげるまでに、さして時間はかからなかった。
 二崑坊はそんな源兵衛の危うさに薄々気がついていた。だからこそ下手に刺激をしないように、急ぎ旅立ったのであった。

 各地を行脚し、修行に勤しむうちに、一年二年と時は瞬く間に過ぎてゆく。
 ゆえに二崑坊も油断した。

「さすがにもうほとぼりも冷めたであろう」

 なにせ高槻という土地は京の都から西国へと抜ける玄関口にあたる場所である。
 陸路にて西国へと向かうには、どうしても通らねばならぬ。
 ひとしきり東を行脚したので、次は西を巡ろうと考えた二崑坊は、さっさと高槻を通り過ぎようとした。
 だが出来なかった。
 どこで聞きつけたのか、街道にて源兵衛が待ちかまえていたのである。

「素通りだなんんて水臭いじゃありませんか、二崑坊さま。大切な恩人をみすみす行かせてしまっては平田源兵衛の名が廃るというもの。さぁさぁ、どうぞ我が家にお越しください。妻もきっと喜びます」

 源兵衛はにこりと笑顔で深々と頭をさげる。
 にゅうと細めた目の奥に妖しい光が宿っているのを前にして、二崑坊は自分の考え違いを悟る。
 数年を経たのでもう大丈夫?
 とんでもない。その逆であった。歳月を重ねることで、より深く想いが煮詰まり醸造されている。二崑坊はぶるりと身を震わせた。

 断わり切れずに押し切られた。
 源兵衛に案内されるままに彼の村へとやってきた二崑坊、歩きがてら見た限りではとくにおかしなところは見受けられないので、ほっとする。
 だがしかし、庄屋の屋敷が見えてきたところで二崑坊は、ぎょっ!
 そ画だけが濃い瘴気に包まれているかのようになっていたからである。
 妖炎怪忌、あまりの禍々しさに二崑坊は立ち止まる。すぐにきびすを返して逃げ出したかった。だが背後にはそれを許さぬとばかりに、源兵衛が立つ。
 そして二崑坊がまごまごしているうちに、前からお久があらわれた。
 すっかり健康を取り戻し、以前よりもずっと美しくなったお久が、喜色を浮かべて駆け寄ってくる。
 その姿はまるで長旅に出ていた恋人を迎える女のよう。
 だからとて、お久は美僧に対して邪な気持ちを抱いていたわけではない。お久の胸の内にあったのは深い尊敬と憧憬である。
 門前にて「いまか、いまか」とそわそわしていたところに、待ち人来たる!
 つい飛び出してしまったのであった。

 二崑坊は表面上はにこやかな笑みにて「お久どのも、すっかり本復したようでなにより」と挨拶に応じるも、法衣の下ではじっとり厭な汗が止まらない。
 なぜなら背後から向けられる、源兵衛からの突き刺さるような視線をずっと感じていたからである。


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