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其の二百八十八 三の炎 不知火 前編
しおりを挟む井戸端にて顔を洗っていると、手桶の水面に映るおのれの顔を見て、藤士郎は「はぁ」と小さな溜息を零す。
鐘ヶ淵の家に滞在してから四日目となった。初日はここにやってきただけで終わり、仕事にとりかかったのは翌日からだ。
だから働いたのはまだ二日だけである。
そのわりに体が疲れている。肩が少し重い。しっかり食べてちゃんと寝ているのに倦怠感が抜けきらない。
べつに夜なべをしたわけでもないというのに……。
「う~ん、私も歳かしらん。それとも風邪でもひいたかな?」
首を傾げつつ藤士郎は母家へと戻り、さっそく本日の仕事にとりかかることにする。
三冊目の表紙に記されていた題目は『不知火(しらぬい)』とあった。
不知火とは海に浮かぶ不思議な火のことだ。近くに行って確かめようと小舟を出しても、近づくほどに遠くなるという、まるで蜃気楼のようなもの。海で亡くなった者の魂が陸恋しさにあらわれるとも云われているけれども、本当のところはわからない。
漁師の中には「あれは海の底に住んでいる竜神様の灯明だから、失礼があってはいならん」と不知火が浮かぶ夜には舟をけっして漕ぎ出さない者もいるとか。それゆえに竜灯とも呼ばれている。
夏もいよいよ盛りを迎える八朔(はっさく)の頃にあらわれることが多いらしいのだが、とくに人に害を為したという話はとんと聞いたことがない。
どうして藤士郎が不知火についてひとしきり見識があるのかとえば、じつは五年ほど前に江戸の海に不知火があらわれたことがあったのである。
あの時はずいぶんと評判になり、騒ぎにもなった。連日瓦版にも取り上げられ、見物客が浜に押しかけたもので、藤士郎も自然と詳しくなった。
「……とはいえ、先の二冊からの流れを考えたら、きっとまともな話じゃないんだろうねえ」
藤士郎はしばし『不知火』の書をじっと見つめてから、意を決して手をのばす。
◇
ずっと昔は上総の国のことである。
大きな地震があった。その時に発生した津波によって、とある漁村では子どもたち十三人が波に攫われるという悲劇が起きた。
たまさかみんなで村から少し離れたところにある磯へと、貝拾いに出かけていたところを波に襲われた。
一瞬にして全員の姿が消えた。
いきなり我が子を奪われた親たちの嘆きはひとしお、漁村は火が消えたようになってしまった。
それでも人は生きていかねばならぬ。そして生きるためには働かねばならない。
子を失くし悲しみに暮れる身内らを横目に、他の村人らはじょじょにもとの日常へと戻っていった。
そうして半月ほど経ったときのことである。
村から女がひとり、いなくなった。
津波で子を失くした母親のうちのひとりであった。
ひと仕事を終えて夫が家に戻ったら女房の姿がどこにもない。
いくら待てども帰ってこず。ついには日が暮れてしまった。
夫もさすがにこれはおかしいと考え、血相を変えて村長のところに駆け込んだ。
「すわ、もしや死んだ子ども恋しさに海へ身を投げたのでは?」
案じて村人たちは総出で付近を探すも、ついに女は見つからなかった。
だがことはこれだけでは終わらない。
以降、ほんの七日ほどの間に、立て続けに女が三人いなくなった。
みな津波で子を失った母親であった。
忽然と消えるところは、最初にいなくなった女房と同じである。
ふらりと出かけたとおもったら、それきりふつりといなくなる。
これで四人――。
なにやら得体の知れない恐怖を覚えた村長は、山向こうにある寺の住職のところに遣いを走らせる一方で、これ以上の失踪する者がでぬようにと、残った母親たちを一か所に集めて監視することにした。
母親たちは漁村で一番大きな村長の家に集められて匿われた。
腕っぷし自慢の若者を見張りに立たせ、夜通し篝火を焚いては備える念の入れよう。
だがしかし……。
「なっ! おい、どうしたというのだ?」
朝になって村長が見つけたのは、倒れている見張りの者の姿である。
気がついた若者が言うには、「すみません。いきなりうしろからがつんとやられちまって」とのこと。
これを聞いて村長は、はっとした。
背後から殴られたということは、殴った相手は家の中からあらわれたということになるからだ。
村長はすぐに母親たちを匿っている部屋へと向かい、そして愕然とする。
またしても女がひとり消えていた。
他の母親たちに尋ねてみても、みな要領を得ず頼りにならない。
状況から考えれば、みずから見張りを殴り倒して出て行ったようではあるが、理由がわからない。
これで五人目――。
「いったいうちの村で何が起こっているというのだ?」
ようやくみんなが前を向いて歩きかけた矢先の凶事に、村長は困惑するばかりであった。
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