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其の二百七十九 累ヶ淵
しおりを挟む空がじょじょに瑠璃色となっていく。
長い夜が終わった。
知念寺に押し寄せていた百鬼夜行は、東の空が明るくなりだすやいなや、潮が引くようにしていなくなった。
戦いは終わった。
だがのんびり勝利の余韻に浸っている暇はない。
昨夜の騒動、うるさい瓦版にでもかぎつけられたらきっと面倒になる。
だから、さっさと戦いの痕跡を消して撤収する所存。
きびきびと旗下の者らを差配しては、近藤左馬之助が後始末を急がせていた。寺の坊主たちもこれを手伝う。
その作業を横目に……。
「ふぅ、おつかれさま」
小太刀を鞘に納めた藤士郎がねぎらうと、でっぷり猫の姿に戻っていた銅鑼は「おれは腹が減ったぞ。甘いものが恋しい。おみつのところの団子が食いたい」と駄々をこねる。
だが、いくらなんでも時刻が早過ぎる。茶屋はまだ開いてない。
そこで藤士郎は言った。
「たしか本堂の仏さまのところに饅頭が供えてあったような……」
侵入した二体の付喪神たちを追って立ち入ったときに見かけたことを思い出し、教えてやれば、銅鑼は嬉々として摘まみ食いに向かった。
尻尾をゆらゆらさせながらでっぷり猫が遠ざかっていく。
藤士郎が半ば呆れ顔で見送っていると、巌然和尚が声をかけてきた。
「やれやれ、どうにかしのぎきったな」
声ががらがらなのは、一晩中、護摩壇の炎の前で読経を続けていたからである。
「これでもう大丈夫でしょうか?」
血祭り炎女事件を主導していたとおもわれる、愛宕屋の付喪神たちはすべて倒した。
堂傑の式神にて、仇討ちは成就したとのひと芝居も打った。
恨みの念は消えたはずだ。でも一抹の不安が残る。
すっきりしない。何かが引っかかっている。
自身が感じている不安の正体がわからず、藤士郎が眉間にしわを寄せて悶々としていると、巌然が言った。
「とよは尼寺に預ける。江戸の地より出す。鎌倉の英勝寺あたりならば安心だろう」
付喪神たちの脅威はたしかに去った。
だがべつの脅威が残っている。
それは先に亡くなった四人の念だ。
医師の小畠源庵の娘、お文。
小間物問屋菊村屋の娘、お菊。
舟宿伊根屋の娘、お真砂。
同舟宿の船頭、勘助。
狙われた五人のうち、四人は死んだ。
なのに廻船問屋瀧本屋の娘、とよのみは生き残った。
これが非常に危うい。とくにやっかいなのがお真砂である。悋気のあまり周囲に不幸をばらまいた性悪女が、おとなしく成仏なんぞするとは、とてもとても。
「気の毒だがあの娘はすでに累ヶ淵に立たされておる。このままでは、亡者どもにひかれるかもしれんなぁ」
と巌然。
因業がつらつらと重なって重なって、落ちたが最後、二度とは浮きあがれない底なしの淵……、それが累ヶ淵(かさねがふち)である。
今回は運よく助かったが、次も助かるとは限らない。
さりとて逃げることもかなうまい。
どこまでも追いかけてきては、きっとまとわりついてくる。
それを断ち切るには自分を変えるしかない。
世俗との繋がりを一切断ち切り、精進潔斎し、御仏にすがるしかあるまい。
さすればあるいは……。
とよは確かに助かった。
だがもう、これまでのようには暮らせないだろう。
裕福な家の者が、清貧を尊ぶ尼となり、寺に篭って怯えながらひたすら信心に生きる。
酷な話だ。
若い娘の将来を憂いた藤士郎は、猫背をいっそう丸めて暗鬱(あんうつ)な表情を浮かべずにはいられない。
するとうじうじしている藤士郎の背中を、巌然がばしんと一発張った。
「そんな顔をするでない。しゃんと胸を晴れ。やれることは精一杯やったんじゃからな。それにすべてを救えるなんぞと考えるのは、傲慢以外の何者でもない。とんだ思い上がりぞ。なぁに、心配いらんわ。あとは幽海に任せておけばよい。あやつならば、とよをうまいこと導いてくれるはずじゃ」
思い上がりと言われて、はっとした藤士郎は顔をあげた。
ここで自分がうつむけば、左馬之助や捕り方連中、寺の者らのがんばりをも否定することになってしまう。
背筋をのばした藤士郎は「私も片付けを手伝ってきます」と巌然に告げて、左馬之助たちのところへと向かった。
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