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其の二百七十六 狐侍、まかり通る
しおりを挟む床にへばりつくようにして身を伏せていた狐侍であったが、そこへ猛然と近づいてくる圧を察知して、すかさず反対側へと転がった。
間髪入れずに、さっきまで自分がいたところを何かが通りすぎてゆく。
すれ違う瞬間、ちょっと耳がきぃんと痛む。ばさばさと着物の袖や裾がはためき、頬を打つものがあって――。
「えっ! もしかしてこれは……風なのかい?」
廊下の奥から飛んできていたのは風の塊みたいなもの。
そいつを大砲のように撃ち出しているらしい。
燭台の明かりをかき消していたのは、風の力によってであったのだ。
威力こそは本物の大砲には遠くおよばないものの、なかなかにやっかいな代物であった。
暗い廊下、視界がほとんど利かないところに、風圧という見えない攻撃が重なっている。
目が駄目なら耳に頼りたいところだが、場所がよくない。
音が反響する。
現状、唯一の救いは敵の攻撃が正面からに限定されていること。
「駆け抜けて強引に近づいて……はちょいと厳しいか。そこそこ連続で撃てるみたいだし、なにより向こうにはこっちの姿がちゃんと視えているみたいだし」
夜は怪異の時間であり、闇は妖に味方する。
天の時、地の利は敵にあり。
ならばと、狐侍は脇の戸板に目をつけた。素早く開けて、身を滑り込ませたのは廊下の左側にある宿坊である。
直線の廊下という場所では、いい的になるだけだ。
だからより広い場所へと移動する。
そしてすかさず跳ね起きて、奥へと向けて駆け出した。
敵が戸惑っているうちに、いっきに距離を詰める算段だ。
どんっ!
発射音が鳴って、戸板の一枚が吹き飛ぶ。
廊下側からの風の砲撃である。
でも、当たらない。狙いが甘く、狐侍の動きの方が速い。
どんっ!
ふたたび発射音が響き、またもや戸板が吹き飛んだ。
ただし今度はちょこまか動く狐侍を狙ったものじゃない。
狙ったのはその前方、牽制だ。
風圧を受けてはずれた戸板が返すがえす、宙を舞っては進路を妨害する。
邪魔な戸板、これをとっさに左に避けて走り続ける狐侍であったが、危ういところであった。
もしも右に避けていたら追撃をまともに喰らっていたからである。
敵もさるもの、ひと筋縄ではいかない。
宿坊は縦に長く、十五間ほどもある。
そこを敵の攻撃をかい潜りつつひと息に駆けた狐侍、あと少し――。
どんっ!
眼前で戸板が吹き飛び、盛大に跳ねた。
戸板がくるくる舞いながら飛んでくる。
さぁ、右、左、どっち?
ここが勝敗の分水嶺、丁半博打にて、攻守ともに選択を迫られる。
戸板越しにちらりと見えたのは、暗がりの中で砲身らしき長い影が右へと動くところ。
だから狐侍は左へと飛んだのだけれども、瞬間、ぐいんと急に影が左に舵を切る。
虚実っ、まんまと謀られた!
狐侍が気づいたときには、止めを刺すべく風弾が放たれていた。
至近距離、これはとても避けられない。
だから狐侍は――。
窮地に追い込まれた狐侍、とっさに繰り出したのは前蹴り。
行く手をふさぐ戸板をあえて避けない。押してまかり通る。
てっきり狐侍は左から抜けてくるものと放たれた風弾は空を切った。
それを横目に戸板ごと押し、相手に体当たりする。
団子となって激しい取っ組み合いとなった。
だがこの展開は戦場を想定した実戦的な古流剣術である伯天流の十八番だ。
じたばた暴れる相手を組み伏せ、斬っ!
狐侍の手に握られた小太刀の刃が相手の命脈を絶つ。
はぁ、はぁ、はぁ。
乱れた息を整えつつ藤士郎は小太刀を鞘に戻す。
その足下には真っ二つに割られた竹筒の姿があった。
二尺ほどもある大きな火吹き竹であった。おそらくは湯屋の竈門(かまど)で使われていたものであろう。
江戸っ子はぬるい湯を好まない。客たちを満足させるために、日々、愛宕屋を裏から懸命に支えていた大切な道具が化けた付喪神……。
手強い相手であった。
それすなわち、彼らの怒り、無念の大きさのあらわれだ。
藤士郎は「すまない。あとでちゃんとお焚き上げをしてもらうから」と詫びて、その場をあとにした。
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