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其の二百五十九 夜叉姫
しおりを挟む八王子の狐騒動のおりに、近藤左馬之助は黒狐の怪異の凶爪にかかって生死の境を彷徨った。
あわやというところであったが、銅鑼の助言により呼ばれた巌然の法力により救われる。
妖や怪異なんぞは認められない。武士たるもの、そのような存在に惑わされ怯えるとは何事か!
というのが世間一般の武士の建て前である。
ましてや、お役人という立場もある。
事件のたびに「すわ、もしや妖の仕業か」と騒いでいては仕事にならない。
だから左馬之助も表向きはその考えに倣っている。
とはいえ実際に我が身で経験した。その手の厄介事にしょっちゅう巻き込まれているへんてこな友人もいる。
ゆえに「世の中には人知を超えたものが、たしかにある」と一定の理解を示している今日この頃……。
疫病神が、ただいま高輪の屋敷に滞在中。
ついでに橋と川と道を司る女神たちも集っており、さらにはその席を設けたのが、異才の女貧乏神である。
もしも疫病神の機嫌を損ねて江戸入りをされたら、えらいことになりかねない。
藤士郎から話を聞いた左馬之助は愕然とするも、すぐにはっと我に返った。
なにげに江戸の危機である。いまは呆けている場合ではない。
「いかん、なんとしても事が大きくなる前におさめるぞ」
と、左馬之助が頼もしい。
浜でのびている連中は捕り方の本隊にまかせて、左馬之助は丁字路の右へと入っていった分隊を追う。藤士郎もいっしょに駆け出した。
けれども願い虚しく、懸念していたことがついに起きてしまった。
ようやく追いついたとおもったら、道の突き当りにある屋敷の門前で右往左往している分隊の姿があった。
「おい、どうした? 逃げたふたりはどこへ行った?」
近くの者に詰め寄る左馬之助、あまりの剣幕だったもので相手はおどおどしながら答えた。
「そ、それが……。どうやらこの屋敷の内に潜り込んじまったようでして、へい」
見るからに只者ではない立派な門構え、広い敷地、数多の武家屋敷が集う高輪の地でも屈指の大きさを誇る。
ここがさる大大名の持ち物ということは、地元の人間ならば誰でも知っている。
もっともそれは過去のことである。いまの持ち主はちがう。
よもや吉原の女貧乏神にたぶらかされて、阿呆な殿様が貢いでしまったとは、さすがに外聞が悪すぎて言えやしないよ。
というわけで、地元の者らはいまでもここが大大名の地所だと思い込んでいる。
だからこそ、捕り方の分隊は踏み込めずにおろおろしていたのであった。
藤士郎は左馬之助に目配せをしてから、門前をこそっと離れた。
向かうのは裏手にある勝手口だ。
すぐに足音が追ってきた。左馬之助だ。分隊の者らには「自分が屋敷の者に話を通してくるから、しばし待て」と告げ、単身ついてきた。
勝手知ったるなんとやら。お遣いで何度も出入りをしているから、屋敷の中のことはすっかりわかっている。
藤士郎は左馬之助を案内しつつ、庭側から敷地内にある能楽堂へと足早やに向かった。
まずはやんごとない方々の無事こそが肝要、それさえ問題なければ、あとはいかようにも誤魔化せるはず。
と、藤士郎は考えたのだけれども――。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「ひぃいぃぃぃぃぃいぃぃっ」
もう少しで能楽堂につく。
というところで、聞こえてきたのは絹を切り裂くような……ではなくて、ごわごわ使い古された麻布(あさぬの)を乱暴に破いたかのような男たちの悲鳴である。
響く野太い絶叫にびくりと肩を震わせ、藤士郎と左馬之助はおもわず足を止めた。
「あちゃあ、遅かったか」
万事休す、藤士郎は天を仰いだ。
でもあいにくの曇り空、希望の星のひとつも見えやしない。
ここに逃げ込んだふたり、よりにもよって一番踏み込んではいけないところに、踏み込んでしまったようだ。この広い敷地内、身を隠す場所なんていくらでもあっただろうに。
おおかた蛾みたいに華やかな灯りに惹かれたのだろうけど、相手が悪かった。
ちらりと横を見れば、左馬之助は思案顔にてぶつぶつ。
「紗枝と知恵をすぐに江戸から遠ざけねば、信州の親戚を頼るか、それとも上方の……」
むずかしい顔をしてなにやら考え込んでいる。
そんな左馬之助を残し、藤士郎はひとり能楽堂へと。
わずかにそっと戸を開け、おそるおそる中をのぞいてみれば、煌々と室内を照らす燭台に照らされ、長く伸びた影がゆらめく。
三人の夜叉姫がいた。
彼女たちの足下には、大きなぼろ雑巾が転がっている。
それは侵入した男たちの成れの果てであった。
おっかない鬼女の類を描いた絵は数多あれども、そのどれをも凌駕する姿を目の当たりにして、さしもの藤士郎もすっかり肝を潰し「ひゃっ」と頭を引っ込めた。
ぶるぶる、でも怯える一方で冷静な自分も残っており、あることに気がついてほっと安堵する。
……夜行匡房がいない。
「う~ん、ひょっとして最悪の事態だけは避けられたのかしらん?」
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