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其の二百五十六 鰻の煙
しおりを挟む見張りを手配する前に男が動く。
奴のねぐらは判明しているし、ここはいったん見逃して、準備を整えるべきか否か。
判断を迫られた左馬之助は、わずかな逡巡にて追跡することに決めた。
いまさら放り出せない藤士郎も付き合うことにする。ちらりと疫病神と三姫たちのことが頭をかすめたが、あちらには銅鑼がついているから、きっと大丈夫のはず……たぶん。
若干の不安を覚えつつ、藤士郎は左馬之助とともに行商人の男の背を追った。
両国橋を渡り、神田界隈を抜け、西へと向かう。
右手側に江戸城を、左手側に西本願寺を眺めつつ、いくつかの堀を超えた。
するとどこからともなく漂ってきたのは、いい匂い。
とたんに藤士郎の腹がぐぅと鳴り、左馬之助も自分の腹をさする。
「たまらんなぁ。そういえばこの近くに鰻の店があったっけか」
左馬之助が言ったのは、大和田屋のことであろう。
江戸前の鰻に甘辛いたれをつけたかば焼き、これで飯をかき込むもよし、一杯ひっかけるもよし。鰻料理で知られた名店である。
だがいまは尾行中である。鰻の料理屋に寄っている暇はない。
そこで藤士郎が思い出したのは、懐に入れてあった団子の包みのことである。銅鑼への差し入れにと、おみつの茶屋で買い求めた分だが、背に腹は変えられぬ。
串団子を片手に、藤士郎たちは追跡を続ける。
「鰻の煙で団子を食うのも、なかなかおつなもんだな。もぐもぐ」
「匂いだけでも案外いけるもんだねえ。もぐもぐ」
歩きながらふたりして、十本あった団子をすっかり平らげた頃には、芝の増上寺をも通り過ぎ、ついには古川までも超えていた。
それでも男はずんずん歩いていく。
「あの野郎、いったいどこまで行くつもりだ」
風に混じる潮の香りに、左馬之助は顔をしかめる。
でも隣に並ぶ藤士郎は「あれ? こっちの方向ってばたしか……」と首を傾げていた。
じょじょに近づいているのは高輪(たかなわ)の地であったからだ。
期せずして出戻ることになった。藤士郎は奇妙な符合に「なんだろう。とてもいやな予感がするよ」とぶるり、身を震わせた。
◇
街道沿いをそれて、行商人の男が浜へと向かう。
その先には数軒のあばら家が建ち並んでいた。
いつしかどんより曇り空になっており、海風が吹き荒ぶ閑散とした灰色の風景。寂れ具合からして、どうやら住む者らがいなくなって、放置されてひさしい場所のようだ。
場所が砂浜近くゆえに見晴らしがいいので、うかつに近寄れない。
だからふたりが松の木陰から、遠目に様子を伺っていると、行商人の男はあばら家のうちの一軒へと入っていった。
そこで中の様子を探るべく左馬之助を残し、藤士郎は単身であばら家に近づく。
この手の隠密仕事は、伯天流を学んだ狐侍にはお手の物である。それに万が一、露見しても藤士郎の見た目であれば適当な言い訳ができる。誤魔化しがきく。これがいかにもお役人、武士然とした左馬之助ではそうはいかない。
草鞋を脱いで裸足となる。身を低くしては周囲を警戒、自分の足音に気をつけつつ砂を踏みしめそろりそろり。藤士郎は目当てのあばら家へと近づいていく。
ある程度まで距離を詰めたところで、いったん立ち止まり、じっと様子をうかがう。
見張りの目を気にしたのだが、杞憂であったようだ。
安心した藤士郎はふたたび動き出し、容易に建物へと張り付くことに成功した。
下手に建物の周辺をうろつけば、あばら家は粗末な板張りの壁ゆえに、すぐに悟られる。
潜り込める床下なんていう上等なものもない。屋根にのぼればたやすく抜け落ちるであろう。
だからさらに身を低く、それこそ四つん這いに近い体勢となって動き、息を殺す。
見つけた壁の穴に顔を近づけては、内部の様子を探ってみると……。
藤士郎たちがつけてきた者、それと同じような風体の男が三人に、ごりごりと薬研(やげん)で何かをすり潰している男と、となりでせっせと刷り物に精を出している男、大刀を抱えつつむっつり顔で酒を飲んでいる牢人者、七人の男たちの姿があった。
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