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其の二百五十五 領分ちがい
しおりを挟むおりよく南町奉行所にいた近藤左馬之助は、藤士郎からもたらされた一報を受けて、さっそく腰をあげた。
とはいえ、あくまでまだ疑惑の段階なので手勢は連れず、ひとりきりで――。
「藤士郎……、じつはこの一件、ちと面倒なことになっている」
例の行商人の男、その隠れ家とおぼしき長屋へ向かっているときのことである。
並んで歩く左馬之助がむすっとした顔で言った。
なにが面倒なのかというと、今回のいんちき商売のお札と丸薬の抱き合わせである。
丸薬の方はともかく、お札は寺社仏閣にかかわることゆえに、寺社奉行所の領分に抵触する。町方と寺社方の仲についてはいまさら語るまでもなかろう。
「町方は薬種問屋たちからせっつかれている。寺社方は坊主どもからせっつかれている。その意味がわかるか?」
左馬之助の言葉に、藤士郎は眉間にしわを寄せしばし考え込んでから、あることに思い至って「あっ、そうか。わかった」とぽんと手を打った。
もしも町方が犯人を取り押さえれば、薬種問屋のみならず坊主どものお覚えもめでたく、かつ寺社方の鼻を明かすことになる。そしてその逆もまたしかり。
だがそれゆえにせっかく事件を解決しても、あとにいらぬ遺恨を残すことになりかねない。
「ふ~ん……ということは、左馬之助は手柄を独り占めする気はないんだね」
「まぁな。上の者らが張り合うのは伝統みたいなもんだから、いまさらだ。けど、そいつを下の現場にまで持ち込まれてはたまらん。それに悪目立ちして、逆恨みされてはたまらんからなぁ」
ため息まじりで宮仕えの苦労を吐露する左馬之助に、お気楽な立場の藤士郎は同情を禁じ得ない。
せめてもの救いは、寺社方にも話のわかる者が少なからずいるということ。
左馬之助は今回の一件、その者らと協力してなるべく穏便に済ませる腹積もり。
◇
藤士郎に案内されて溝板長屋まできたものの、左馬之助は木戸を潜らず。
さりげなさを装いつつ、木戸の前を通り過ぎる。ちらりと横目に奥の様子を眺めるのみ。
この手の長屋で、いきなり十手片手に役人風なんぞを吹かせれば、たちまちいらぬ騒ぎが起こるだけのこと。
不用意に踏み込んで相手に勘づかれて逃げられては元も子もない。
いったん通り過ぎ、怪しい行商人の男の居所を確認したところで……。
「井戸端でたむろしている女房どもの姿もなければ、子どものはしゃぎ声もしない。煮炊きをしている気配もほとんどないことからして、ここはひとり者が多いみたいだな」
長屋の様子を一瞥しただけで、左馬之助はそこまで読み取った。
続いてふたりが向かったのは近くの番屋である。そこの木戸番のおやじに、気安げに声をかけては世間話がてら、町内のことについてあれこれ聞き出す。
もちろん一番に知りたいのは行商人の男についてだが、それを億尾にも出さずに、他のことに織り交ぜて誤魔化すあたりは、さすがである。
藤士郎が振る舞われた白湯を啜りながら、ほとほと感心しているうちに左馬之助は話を聞き終えた。
そうしてわかったのは、行商人の男があそこに住み着いたのは、ほんの半月ほどばかり前のこと。近所との付き合いは皆無にて、ときおり似た格好をした者が訪ねてくるそうな。
売り歩いていくらの商いゆえに、うちを空けていることも多く、出かけたきりにて夜になっても帰ってこない日もあるんだとか。
藤士郎と左馬之助は近くの堀沿いに場所を移す。
ぶらぶらしながら、溝板長屋の周辺の地理をざっとなぞりつつ、左馬之助が顎先を手でさすり言った。
「どうもあそこは、ただのねぐらみたいだな」
その考えに藤士郎も同意する。
「みたいだね。それにあんなところで悪だくみをしていたら、隣近所に筒抜けだよ」
「……今回の一件、市中での拡がり具合からしてひとりでは無理だ。少なく見積もっても三から五、多くてもせいぜい十人ほどが組んでの犯行だろう。それ以上となると、今度は割りに合わねえ。なにせひとつ売って五百文だからな。となれば連中の溜まり場があるはず」
「どうする? あの男を捕まえて吐かせるかい」
「いや、それよりも泳がせよう。巣まで案内させて一味をまとめてひっ捕まえてしまう方が、手間がなくていい」
というわけで、さっそく行商人の男を見張る手筈を整えようとふたりが話しているところで、急に藤士郎が左馬之助の袖を掴んで、近くの路地へと引き込んだ。
訝しむ左馬之助に、藤士郎は「しっ」
藤士郎が見つめる先には、行商人の男の姿があった。
どこぞに出かけるらしい。
「ひょっとして、あいつが例の」
との左馬之助の言葉に、藤士郎は無言でうなづいた。
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