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其の二百四十七 疫病神の江戸入り
しおりを挟む母志乃から来客を告げられて、藤士郎が急いで顔を出せば、相手は貴祢太夫(たかねだゆう)からの遣いの者であった。
貴祢太夫は吉原屈指の妓楼大黒屋の花魁である。
しかしその正体は貧乏神だ。従来の貧乏神は、対象にとり憑いて金子や財を奪い困窮させるのだが、彼女はちがう。
「そんなちまちましたこと、あっちの流儀じゃござんせん」
美貌と色香にて蔵に大判小判を抱え込んでいるお大尽らを手玉にとっては、夜な夜な散財させて、ごっそり巻き上げている。
かつて妖怪骨牌(ようかいかるた)騒動のおりに、藤士郎は顔見知りとなったのだが、彼女からの文にはこう書かれてあった。
『疫病神についてお伝えしたいことあり。すぐに来るように』
これを見て藤士郎はおもわず「あっ!」
妖怪骨牌を巡っての騒動や、柳生一門や裏稼業の者らとのいざこざ。
料理屋紅楼の跡目争いの発端となった、松之助の生霊と吐き溜めの壺。
知念寺の蚤の市にて、狸の彫り物と欣也の鈴に見込まれて巻き込まれた大一番。
ここのところ身のまわりがどたばたしていたもので、すっかり忘れていた。
そうなのである。
やっかいなことに、現在江戸には疫病神が近づいてきているのだ。
疫病神は文字通り、病をもたらす悪神である。
そんなのが江戸に入り込んだら最後、いったいどれほどの犠牲が出ることやら。
招かれざる客、これを嫌っているのは民草のみではなく、貴祢太夫もたいそう目くじらを立てている。
なぜなら疫病が蔓延したら、たちまち不景気となって不夜城である吉原の灯が消える。商売あがったりとなるからだ。
それこそ神力行使も辞さぬほどに、貴祢太夫は柳眉を逆立てている。
かくして貧乏神と疫病神の対立が浮き彫りとなったのだが、この事態を懸念していたのがあの世の役所であった。
二柱の争いが激化したら、そのしわ寄せがどっとあの世に押し寄せることは必至であろう。
あの世とこの世を隔てる三途の川岸にはつねに長蛇の列にて、亡者の衣服を剥ぎ取るのを生業としている奪衣婆はてんてこ舞い。
「ったく、なんて量だい! 剥いでも剥いでもきりがありゃしない」
渡し守は休むまもなく川を往復させられて「ひいひい」悲鳴をあげており、待ちくたびれた連中もいら立ち「おい、ちゃんと順番を守れ!」「おまえこそ割り込むな!」なんぞと揉めて、大小のいざこざが絶えず。
これを取り締まる鬼たちもすっかりげんなりしている。
で、ようやく川を渡ったら渡ったで、お役所仕事にてちんたら待たされる。
だからとて誤解なきよう。
けっして役人がさぼっているわけじゃない。むしろその逆である。
お役所はお役所で、毎日毎日、送られてくる膨大な亡者の処理にひたすら追われていた。ここでの判定いかんで刑罰が確定し、来世にも強く影響する。ゆえに気も手も抜けないから、おざなりにはできない。どうしたって仕事には時間がかかる。
「ただでさえ忙しいのに、これ以上はさすがにちょっと……」
というわけで、あちらで官吏をしている父平蔵を通じて、息子の藤士郎に「どうにか貴祢太夫をなだめてくれ」と泣きついてきた。
とんだ無茶ぶりである。
そのために藤士郎は奔走することになったのだが、そのかいあってどうにか貴祢太夫から穏便に済ませる約定を取りつけることに成功した。
だが、とんだ片手落ち。肝心の大元である疫病神の江戸入りのことをすっかり忘れていたのである。
こうなると写本の内職どころじゃない。
藤士郎は「嫌だ、あんな女に関わりたくねえ」とごねる銅鑼のえり首を引っ掴んで、おっとり刀で吉原へと向かった。
◇
四重の立派な楼閣……、武家屋敷や寺社、日本橋の大店ともちがう、どこか異国の風を感じさせる形状の威容を誇る大黒屋。
何度足を運んでも、この前に立つと狐侍は緊張する。
おずおずと声をかければ、事前に話が通してあったようで、藤士郎はあっさり奥へと通された。
そうして最上階の座敷で待っていたのは、不機嫌顔にて煙管を喫(の)んでいる貴祢太夫と、つんと澄ましている三人の美姫であった。
振袖姿も艶やかな娘たち。
雰囲気からして吉原の女じゃない。堅気……それもただの堅気じゃない。身につけているのは素人目にもわかる高価なものばかり。座っているだけで絵になる。佇まいに品がある。これは一朝一夕には身につかない。持って生まれ育(はぐく)まれたもの。それすなわち高貴な家柄ということ。
だからこそ、初見時に藤士郎は無意識のうちに彼女たちを「姫」と認識していたのであった。
疫病神の江戸入りについての話で呼び出されたと思っていたのに、慌ててきてみればこの状況。
藤士郎は困惑を隠せず、無理矢理に引っ張られてきた銅鑼は「ふんっ」と鼻を鳴らした。
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