狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
245 / 483

其の二百四十五 大橋の欄干

しおりを挟む
 
 それは九坂藤士郎が書物問屋の銀花堂から頼まれていた、写本仕事を納品した帰りのことであった。
 じつは身分は明かせぬが、どこぞのご贔屓筋が藤士郎の筆遣いをえらく気に入ったとかで、ちょくちょく指名依頼が入るようになっていたのである。
 相手はよほどの上客らしく、銀花堂の若だんなの林蔵さんから、「藤士郎さんのおかげでうちも潤っておりまして。またお願いしますね」と言われるほど。
 源氏物語に始まり、竹取物語、枕草子、更級日記、万葉集などの写本仕事からして、おそらく藤士郎の手筆を気に入ってくれたのは若い女人とおもわれる。

「いやはや、ありがたい。おかげで失くした鍋の変わりを買えたけど、いったいどこのどなたなのかしらん?」

 歩きながら藤士郎が小首を傾げた。
 そうなのである!
 竜胆と不動、七星と呼ばれる賭博師らの代打ち勝負の夜。
 勝守の分社に潜入するのに邪魔になるからと隠しておいた鍋、そのことを藤士郎が思い出したのは一両日が過ぎてから。

「しまった! いろいろあってすっかり忘れてた」

 家を飛び出し、急いで隠し場所に向かってみれば、すでに鍋は跡形もなく消え失せていた。誰かに持っていかれてしまったのである。中途半端な大きさゆえに日常使いには適さない品ゆえに、いまごろはくず屋にでも持ち込まれて、とっくに鋳潰されてしまっていることであろう。
 破落戸どもに追いかけ回されるわ、せっかく蚤の市で手に入れた鍋は失くすわ、大一番の立会人をやらされるわ、町方の手入れとの乱闘に巻き込まれるわ、それがばれて近藤左馬之助からくどくどと説教されるわ……と、本当に散々であった。

「ろくなことがない。やはり博徒や賭け事なんぞにかかわるもんじゃないね」

 すっかり懲りた藤士郎が「くわばら、くわばら」とつぶやきながら大橋を渡ろうとしていたときのことである。
 大橋は上流の両国橋、下流の永代橋に挟まれた橋だ。
 深川と日本橋方面を繋ぐ橋ゆえに、人の往来は盛んである。
 そんな橋の中ほどまで進んだところで藤士郎は「おや?」
 右前方の欄干を半円に囲むようにして黒山の人だかり。集まる野次馬たちを町方の者らが、「下がれ」と押しとどめている。
 場所が場所なので、またぞろ身投げでもあったのかもしれない。
 藤士郎は眉をひそめつつ、さっさと通り過ぎようとした。
 けれども、横目にちらり。現場を目にしてぎょっとなった。

 江戸の生命線ともいえる隅田川、そこをまたいでいるだけあって、大橋は立派な橋だ。ゆえに頑強に組まれている。万が一があってはならぬと、使われている木材ひとつとっても厳選されたもの。
 だというのにである。
 その太い欄干がごっそり失せていた。
 何か大きなものが欄干にぶつかって、突き破って外に飛び出したかのようなありさま。
 尋常ではない破壊の痕跡に、藤士郎はおもわず足を止める。
 するとそんな藤士郎へ声をかけたのが、現場に駆けつけていた役人のうちのひとり。
 定廻り同心をしている近藤左馬之助であった。

「ったく、おまえはどこにいても、すぐにわかるなぁ」

 長身痩躯のひょろ長、柳のような容姿の友人に左馬之助が軽口を叩く。

「ふん、よけいなお世話だよ。にしても、これはいったいどうしたことだい? 欄干がひしゃげてしまっているじゃないか」
「あー、こいつか……。じつはよくわからんのだ」
「?」
「いやな、じつは……」

  ◇

 昨晩のことである。
 その夜は妙に生ぬるい風が吹き、客足もさっぱり。
 だから大橋のたもとで商売をしていた夜鳴き蕎麦の屋台も、早々に店仕舞いをしようとしていたところに、突如として聞こえてきたのが激しく争う声である。
 それもひとりやふたりじゃない。少なく見積もっても五人以上はいたであろう。
 どたどたと足音を立てながら大橋を渡ってくるではないか。

「げっ、浪人同士の喧嘩か? 巻き込まれたら面倒だ。とっとと逃げなきゃ」

 夜鳴き蕎麦の主人は片付けもそこそこに、すぐに屋台を引きあげようとする。
 その矢先であった。

「ばきっ!」と派手な破砕音が響き、続いて「どぼん!」ときたもんだ。

 これに主人は固まった。
 誰かが橋から落ちたらしい。
 えらいこっちゃと、主人が慌てたのは言うまでもない。
 だが、その直後に主人はきょとんとなる。
 なぜなら、あれほど聞こえていた喧騒がはたと消え、橋の上には誰の姿もなく、すっかり静まり返っていたからである。
 だというのに橋の上には土のついた草履による足跡がいくつもあって、欄干はたしかに壊されているではないか。
 まるで狐につままれたような状況に、夜鳴き蕎麦の主人はしばし呆然と立ち尽くしたという。


しおりを挟む
感想 138

あなたにおすすめの小説

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する

川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。 村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪

月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。 首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。 人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。 それは剣の道にあらず。 剣術にあらず。 しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。 まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。 脈々と受け継がれた狂気の血と技。 その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、 ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。 斬って、斬って、斬って。 ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。 幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。 そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。 あったのは斬る者と斬られる者。 ただそれだけ。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

処理中です...