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其の二百四十三 御法度
しおりを挟む桑名以蔵の不自然な動きは、手入れを誰よりもいち早く察知したから?
彼ほどの腕があれば、もっと気配を消して立ち去ることもできたはずなのに、それをせず。あまつさえ、わざわざ立ち止まってはふり返り、目で合図を送ってきてくれた。
おかげで藤士郎は町方の乱入により起こる混乱に対して、慌てることなく気構えを持つ余裕を得た。
「また助け舟を出してくれたのか……。こりゃあ、こんど一杯おごらないといけないねえ。っと、それよりもぐずぐずしてはいられないよ」
いちおう賭博は御法度である。
江戸で徳川の幕府が開かれてから、何度も禁じるお触れが出ている。
だがちっとも無くならない。
それもそのはず。肝心の賭場を開いている場所が武家屋敷だったり、寺社だったりするもので。
賭博の取り締まりは町奉行所の担当なのだが、先に述べた場所らは預かり違いゆえに、迂闊に踏み込めないのだ。
胴元もそれをわかっていて、場所を借り受けている。
貸している側も懐事情が厳しいので、いい実入りとなる。
もちろん賭け事が好ましくないことは、誰もがわかっている。のめり込むあまり身の破滅を招くことも。
でも、人はこれに熱狂する。ましてや宵越しの銭は持たない江戸っ子は、さらに求めてやまない。老若男女はこぞってぞっこんだ。
本音と建て前、体面と実情、武士と町人……。
江戸の社会の歪みとねじれ、矛盾の象徴のような存在が賭場なのだ。
ちなみに賭博の罪で捕まると、多くが島流し、あとは百叩き、江戸所払い、入墨、過料、叱責などなど。最悪、死罪もあるが、これはよほどのことがなければ沙汰が下されることはない。
「……なのに町方が動いた。ということは、上から許可がおりたということか。これは不動さんがにらんだように、大一番の原因になった土地絡みとみて、まずまちがいなさそうだね」
身の丈に合わない件にちょっかいを出して、いらぬ騒ぎを起こしたことで、町田と埋地の両一家は、どこかの誰かさんの虎の尾を踏んでしまったらしい。
追う者、逃げ惑う者、抗う者、「しゃらくせえ!」と腕まくりにて吠える者。
そこかしこにて怒号や悲鳴が飛び交う。
しまいには町方と博徒らが取っ組み合いをはじめたもので、境内はいまや大混乱である。
なにせ博徒は血の気が多く、反骨心も無駄に旺盛ときている。鉄火場では喧嘩や乱闘騒ぎなんぞはしょっちゅうだから、神妙に縛につくわけがない。
さなか、藤士郎がかかる火の粉を払いつつ、脱出を試みていると……。
「西へ向かえ、藤士郎。そっちはまだ包囲の網が閉じきってねえ」
知った声が降ってきた。本殿屋根の上からそう言ったのは、銅鑼であった。
ずっと高見の見物を決め込んでいたでっぷり猫より助言を受けて、狐侍はさっそく人混みをかき分けて移動を開始する。
だが、少し進んだところで不意に突き入れられたのが、捕り方の道具であった。
刺股(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)と、捕具の三種の神器が揃い踏み。
やむを得ず応戦した狐侍、とはいえあまり荒事にして捕り方に怪我でもさせたら、のちに祟る。
そこで藤士郎は向かってきた刺股の先端をかわしつつ、ひょいとその柄を掴んでは、左から迫ってきた突棒をこれで受け、さらに右からのびてきた袖搦をも受け止めて、三つをひとまとめにしたところで、たまさか近くにいた渋柿色の藍染に炎の柄の印半纏(しるしはんてん)を着た者へと「えいっ」と押しつけた。
袖搦には返しのついた釣り針のような突起があって、文字通りこれを獲物の衣類に引っかけて身動きを封じる。
印半纏にまとわりつく袖搦、これから逃れようと暴れるのは町田一家の手下のひとり。
「うわっ、この、くそっ、放しやがれ」
そのせいで四人がくんずほぐれつ。
するとそれらが一斉にずでんとこけた。
やったのは不動であった。
「邪魔だ。どけ」
と、印半纏の背中をひと蹴り。
熊のような大男からいきなりどかんと足蹴にされてはたまらない。くっついている町方らも引きずられた。
それを横目に藤士郎はひとり境内を抜け出ようとするも、そのとき目に入ったのが身動きがとれずに難儀している竜胆の姿であった。
期せずして立会人としてかかわることになった代打ちの賭博師たち。
こんな状況ゆえに見捨てて逃げるのが最善なのはわかっていたが、そうなると預かっている子鈴の扱いに困ることになる。
伝説の賭博師が残した幸運の鈴、そんな代物を持っていたら、この先、延々と破落戸どもにつけ狙われてどんな災難に見舞われることやら。
だから藤士郎は急ぎ戻って、「こっちだ」と竜胆の腕を引っ掴んだ。
ついでにあちらで暴れている不動にも声をかける。
「ほら、いつまでも遊んでないで、とっととずらかるよ。ついてきて」
藤士郎が先頭に立ち露払いをしつつ、三人は連れ立って逃亡をはかる。
人混みを抜け、追手を振り払い暗がりを駆け続けていると、じきに喧騒が遠くなっていった。
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