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其の二百二十七 小雨降る夜
しおりを挟むその日は朝から空模様がどんよりしていた。
深く息を吸えば水の気が鼻につく。
日が暮れたあたりで、ついにしとしと小雨が降り始めた。
さる大名家での祝いの席が催される。その膳を紅楼が請け負うことになり、商談をつめるための訪問、話し合いはつつがなく済んでの帰路のことであった。
父親の名代としては、まずまずの仕事ぶりであったと言えるだろう。駕籠に揺られている松之助は、ほっと胸を撫で下ろしていた。すっかり遅くなってしまったが、先方の屋敷を辞去してすぐに駕籠を拾えたのも、運が良かったと思っていたのだけれども……。
「おや? 駕籠かきさん、うちへ向かうのにこんな処を通る必要があるのかい」
すっかり暗くなっているので気づくのが遅れたが、垂れ幕の隙間からちらりと外をのぞいてみれば、ずいぶんと寂しい場所を駕籠は行く。
すると聞こえてきたのは「へい、こちらの方が近道になりますもんで」という返事であった。
だから松之助は「ふぅん、そういうものかしら」と、この時はさして気にしなかった。
けれども黙々と駕籠が進むほどに、町の灯りと喧騒は遠のき、周囲の闇がよりいっそう濃くなっていくばかり。
ぽつぽつと駕籠に降りかかる雨の音が、妙に耳に響いてはより寂しさを募らせる。沈黙が重苦しい。
その時になって、松之助はようやくあることに気がついた。
駕籠かきがあまりにも静か過ぎるのだ。ふつうは「えいさ、ほいさ」などと威勢のいい掛け声をしては、前後ふたりで調子を合わせたりするものなのに……。
どうにも不安を覚えた松之助が「ねえ、ちょいと」と声をかけようとしたところで、不意に駕籠が止まった。
かとおもえば、ぬうっといきなり太い腕が駕籠の中へとのびてくる。
松之助は着物の襟をむんずと掴まれ、表へと引きずり出された。
地面に四つん這いとなった松之助が目にしたのは、眼前に突きつけられた匕首である。
ぎらりと光る刃に、松之助ははっと息を飲む。
「あんたに恨みはねえが、これも仕事でね。悪いが死んでもらうよ」
迫る切っ先、松之助は這う這うの体で逃れようとするも、すぐに退路を塞がれた。
駕籠かきに扮していた襲撃者らはふたり組にて、前後を挟まれてしまっていたのである。
男たちはそろって大柄で屈強、抗ったとてとて適うまい。
もはや風前の灯火であった。だがしかし……。
「ぎゃっ」
悲鳴をあげて男が匕首を取り落とした。
闇の向こうから飛んできた礫が手の甲をしたたかに打ったのである。
かとおもえば、ざっざっざっ、反対側から砂利を踏みしめる音が素早く近づいてきて、ひゅんと風切り音が鳴り、もうひとりの男が「ぐぬ」とうめいてばたりと倒れ伏した。
松之助がそちらに目を奪われているうちに、匕首を取り落とした方もすっかり片がついていた。
瞬く間に駕籠かきに扮していた男たちを叩きのめしたのは、九坂藤士郎と近藤左馬之助であった。今宵、何らかの動きがあると睨んで、ずっと松之助の動向を見張っていたのである。
左馬之助の手下の者らに捕縛される襲撃者たち。
目まぐるしい展開、何がなんだかわらずに頭がついていかない松之助はへたり込んだまま、ぽかんとしていた。
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