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其の二百二十六 不安の種
しおりを挟む『何かわかったらちゃんと報せろよ』
との約定通りに藤士郎たちは、ぼたんから知り得たことを近藤左馬之助に伝えた。
話を聞いたとたんに左馬之助は腕組みにて思案顔となる。
「なるほどねえ、弥次郎って流しの料理人が獅子身中の虫ってわけか。とはいえ、まだ実際には動いてないのが、ちと面倒だなぁ」
そうなのだ。事件はまだ起きてはいない。
弥次郎はせっせと口八丁手八丁でそそのかそうとしているものの、お梅はいまだに決めかねている段階なのだ。すでに殺し屋を雇うなり、毒を入手しているなりしていれば、その線から踏み込めるのだが……。
「とはいえ、ことが起こるのをぼんやり待っているのは、あんまりだろう。どれ、おれは弥次郎について調べてみるかな」
と左馬之助。
真っ当に生きてきた料理人が、いきなりお店乗っ取りのような物騒なことを言い出すわけがない。あちこち渡り歩きながら、行く先々にてやらかしているのにちがいない。ようは叩けば埃が出る身ということ。
そう当たりをつける左馬之助であった。
一方で藤士郎たちは、これまでと同じく、それとなく松之助の動向に、それも外を出歩くときには特に注意を払って見張りを続けることになった。
◇
見張りを続けて、はや五日が過ぎた。
この間、松之助が店の外に出たのはたったの二回のみ。
常連客である大店の主人が腰を痛めたというので、お見舞いに。あとは北前船がたんまり蝦夷の幸を運んできたというので、それを仕入れるためであった。
遊びに出かけることもなければ、気晴らしにちょいと散歩をということもない。
判で押したかのような店中心の生活だ。
なんとも見張り甲斐のない相手である。藤士郎としては楽であったが、それと同時に「なるほど、弥次郎が言うのも一理あるかも」と独りごちる。
松之助の私生活からは、まるで個というものが見えてこない。
よく出来た跡取り息子、いいや、出来過ぎの息子である。これを素で行っているのか、意図して行っているのかはわからない。
けれども一部とはいえ、本体から分かれて生霊となりうろついていたことからして、当人も気づかぬうちに鬱屈を感じているのはたしかであろう。
紅楼はかわらず繁盛している。
日に一度、藤士郎はぼたんと裏木戸のところで会い、店の中の状況を伝えてもらっている。
ぼたんによれば、お梅の心はかなり揺れ動いているようだ。
しかしそれもしようがない。誰にも相談できないところを、一方的に不安を煽られ、奸計を吹き込まれているのだから。
不安の種というものは、じつにやっかいなものである。
あっというまに芽をだし、根づく。いくら芽を摘んでも、またぞろひょっこり顔をだしては、心の栄養を吸収して希望を蝕む。目を曇らせ信じる力を失わせていく。
いっそのことお梅が傍目にも情緒不安定になれば、周囲がより気を配るようになって、弥次郎の悪だくみになんぞ惑わされることもなくなるのだろうけど、そんなやわな女が紅楼の後妻に選ばれるわけがなく……。
なんとももどかしい気分のまま迎えた六日目に、いよいよ動きがあった。
まずは左馬之助なのだが、「あの野郎、やっぱりいろいろとやらかしてやがったぞ」との報せをもたらす。
包丁一本、腕ひとつにて渡り歩く流しの板前。
弥次郎はたしかに料理の腕はいい。なのに居つくことがないのは、行く先々にて女性問題や、横流し、賭博に喧嘩、強請りたかりなどを仕出かしていたからであった。
とはいえ、犯した罪のひとつひとつは些末なもの。
たとえば横流しなのだが、仕入れた高級な材料を少し劣る品と入れ替えては、他所へ売り払って差額をせしめるといったこと。これにより落ちるであろう料理の味の分は、己の腕でせっせと埋めるというのだから、本末転倒であろう。
強請りにしたって、自分で人妻にちょっかいを出しておいて、「このことを亭主にばらされたくなかったら」と銭をせびる程度のことだ。
けちな小悪党である。
だがそんな男に千載一隅の機会が巡ってきた。
うまくいけば、いまの浮草のような生活からおさらばして、名店の板長になれる。それどころか、お梅を言いなりにしてゆくゆくは……。
どうやら弥次郎の中にも不安の種があって、しっかり芽吹いているらしい。
だからこそ、小悪党は柄にもない分不相応な野心を抱いたのだろう。
ぼたんからもたらされたのは「今夜、松之助が家を空ける」というもの。
上得意である、さる大名家で近々婚礼があって、その祝いの席での膳を紅楼が請け負うらしく、そのための打ち合わせである。
父親の名代としての務め。
行きは問題ないだろうが、危ういのは帰りの夜道だ。
狙うなら絶好の機会である。物盗りにでも見せかけて、暗がりでばっさり殺ってしまえば、後腐れなく邪魔者を始末できる。
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