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其の二百二十三 猫もどき
しおりを挟む投げ文に使われていた墨は、かなりの上物……。
とは銅鑼の見立てである。たしかに文字をよくよく見直してみれば色味が濃く、きめ細かく、むらもない。練りの甘い新墨特有のふわふわした感じがないことからして、名のある職人の手にて丹念に練られた墨を用いて書かれたのにちがいあるまい。しかも三、いいや、五年は寝かせた物のはずだ。
さすがは紅楼である。使っている墨も一級品だ。
だがそんな上等なものを、いかに紅楼の使用人とて自前で持ち合わせているはずがない。
「……となれば、投げ文を寄越した者は主人か、もしくは家の者の目を盗んで拝借したということかしらん」
「それも書斎への出入りを許されていることからして、信用されて身のまわりの世話を任されている者だろう。まぁ、だからこそ松之助の危機を知ることができたんだろうよ」
藤士郎と銅鑼は左馬之助の目を盗んで、こそこそ話にて、おおよその見当をつける。
投げ文にて松之助の窮地を報せてきた人物は、主人一家の近くにいる奥女中のうちの、まだ体が育ちきっていない若い娘であると。
あとはその娘の指先に上等な墨の残り香があれば決まりであろう。
「どう、いけそうかい?」
藤士郎の言葉に銅鑼は「問題ない。適当な猫撫で声で近づいて、ちょいと匂いを嗅ぐぐらいわけないさ。ついでに紅楼の旨いめしにもありついてやるぜ」と舌なめずり。
◇
近藤左馬之助から「何かわかったらちゃんと報せろよ」と言い含められて解放された藤士郎たち。
その足で紅楼へと向かう。
「じゃあな、ちょっくら行ってくるぜ」
銅鑼は単身、意気揚々と紅楼の壁を超えた。猫の身を活かしての潜入捜査である。
けれど、ものの四半刻も経たないうちに、板前らしき男に襟首を掴まれて、裏木戸から外に放り出された。
「このでぶ猫め! 今度やったら皮をひんむいて、三味線屋に売りつけちまうからな」
そのやりとりを物陰から伺っていた藤士郎は、何が起こったのかをすぐに悟った。
食い意地の張ったでっぷり猫は、どうやら誘惑に負けて厨房にちょっかいを出したらしい。
「ちっ、けち臭い野郎だぜ。出涸らしのかつお節をちょいと摘まんだだけで、目くじらを立てやがって」
銅鑼がぶつぶつ文句を言いながら戻ってきたもので、藤士郎は「なにをやってんだい」と呆れ顔で出迎える。そしておおいに反省もした。
そもそもの話として、名の知れた料理屋に銅鑼をひとりで行かせたことが間違いであったのだ。九坂家の台所でも母志乃にまとわりついては、にゃあにゃあ。ろくにしんぼうできない猫が、江戸屈指の料理人が腕を振るっている場所で、我慢できるわけがない。
とはいえである。
さすがに銅鑼も子どもの遣いではなかったらしく、それらしい人物の目星はつけてきていた。
「奥に竹太郎の子守りとして雇われている娘がひとりいた。年恰好からしても、おれたちの見込みと合致する。おそらくはあれが投げ文の主だろう」
というわけで、その娘と接触するにはどうすべきか?
藤士郎たちは悩んだ末に、困った時の神頼みならぬ、猫の手頼りに縋ることにした。
毎度お馴染み、猫又たちにひと肌脱いでもらうことにする。
なにせ猫という生き物は神出鬼没で、どこにでも、誰のところにでもするりと入りこんでしまう。ゆえに繋ぎ役にはもってこいなのだ。
でも銅鑼はだめだ。
銅鑼はあくまで猫のふりをしている似非である。その正体は泣く子も黙る大妖の窮奇(きゅうき)だ。そのでっぷりした貫禄あるもちもちの体、むすっとして愛想のないへちゃむくれな顔、ふてぶてしい態度、底なしの食い意地……。
紅楼という場所とは相性が最悪である。
というか、ぶっちゃけあんまり可愛くない。いつも喜んでもてなしてくれる茶屋のおみつちゃんこそが奇特なのだ。
猫又芸者らに渡りをつけると、和田屋のしらたまが遣いを買って出てくれた。
しらたまは、その名の通りの美猫である。月夜に輝く新雪のような毛並み、しなやかな肢体、ごろりゃんと鳴く声は愛らしく、これを前にすれば誰もがつい手をのばしたくなる。
そんなしらたまに、藤士郎は手紙を託す。
手紙にはこう書いてある。
『投げ文の件にて、裏木戸にて待つ』
身に覚えがあれば姿をあらわすだろう。
しらたまが紅楼に入り込んでから、待つことしばし。
裏木戸を見張れるところに潜んでいた藤士郎たちは、そっと木戸が開いて、若い娘がおそるおそる首を出しては外の様子を伺っている姿を目にして、ほくそ笑んだ。
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