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其の二百二十二 筆跡
しおりを挟む夜な夜な若い男の幽霊が、九坂邸の前の雑木林にあらわれる。
なにか未練でもあるのかとおもえば、気にしていたのは埋められていた壺であった。
でも壺の中はからっぽにて、訊けば日々の不平や愚痴なんぞの鬱憤を貯め込んでいた、はき溜めの壺だという。
そんな幽霊、名を松之助といい、江戸でも指折の料理屋である紅楼の跡取り息子のみならず、じつは生霊の片割れにて、当人は家で何も知らずにぴんぴんしているではないか。
とはいえ、いまの状況はあまり魂にも肉体にもよろしくない。このままでは、早晩、倒れ、ゆくゆくは衰弱して死んでしまうことになる。
いかに成り行きとはいえ、知ってしまった以上はこれを見過ごせない。
藤士郎と銅鑼は事態の解決へと向けて動くことにした。
で、どうにか解決への目途がついたものの、最後の仕上げがちとむずかしい。
なにせ人形(ひとがた)に封じ込めた生霊を、当人の口に丸めて突っ込んで、それを飲み下させなければいけないのだから。
「はてさて、どうしたものやら」
藤士郎らが思案しつつ、松之助の動向を探っていると、そこへ声をかけてきたのが南町奉行所の定廻り同心をしている近藤左馬之助(こんどうさまのすけ)であった。
紅楼および松之助を見張っていたのは、藤士郎たちばかりではなかったのだ。
では、どうして同心が動いているのかというと、不審な投げ文のせい。
投げ文によれば、どうやら松之助は何者かに命を狙われているらしい。
とはいえ、紅楼はお歴々が通うような料理屋である。おいそれと町奉行所の同心が乗り込めるような場所ではない。
それに投げ文だけで大々的に動けるわけもなく……さりとて、放置してのちにおおごとになれば、それはそれで問題であろう。
ゆえに、まずは下っ引きらに見張らせていたところ、藤士郎たちがその網に引っかかったというわけである。
生霊、はき溜めの空壺ときて、お次は怪文書ときたもんだ。
またぞろ雲行きが怪しくなってきた。藤士郎と銅鑼は顔をしかめずにはいられない。
「しかし、ざっと調べてみたかぎりでは松之助という男、周囲からの評判がすこぶる良くてなぁ。他人から恨みを買うようなやつにはとても思えん。とはいえ、ちょいと出来過ぎにて逆に薄気味が悪いぐらいだ」
そう言って左馬之助は白湯の入った湯飲みをぐいと飲み干す。
父親の言うことをよく聞いて、店の手伝いもせっせとこなしている。義理の母になるお梅にも尽くし、腹ちがいの弟である竹太郎もそりゃあ可愛がっている。
誰に尋ねても、返ってくるのは「ありゃあ、いい人だよ」と判を押したような答えばかり。
非のうちどころがない。紅楼の松之助、とんだ孝行息子である。
でも、だからこそややこしい。
これが色恋の果ての丁々発止やら、放蕩や博打などのいざこざに端を発しているのであれば、根っこを突き止めるのは簡単なのだが、それらしいものが影も形もありゃしない。
「投げ文ひとつで、あの紅楼にずかずか踏み込むわけにもいかんからなぁ。松之助にしても下手に近づいたのがばれたら、どこからお咎めを受けるやら。せめて、手紙の主から直接話を聞けたらいいのだが……」
投げ文は拙い女文字で書かれてある。
たまさか左馬之助がそれを持っていたもので、藤士郎も見せてもらったのだが、たしかにあまりいい筆遣いとはいえない。
でも写本仕事で書物とにらめっこをし、いろんな文字と接する機会がある藤士郎の目はそこそこ肥えている。鑑定眼とまではいわずとも、文字の特徴やら文脈などから、ある程度は書き手を推し量ることができる。
「ふむふむ、なるほど。女文字に寄せて書いたのではなくて、本当に女の手によるものだね。それに『の』や『る』、それからこの『あ』のところも。とめ、はね、はらい、の癖が強いけど、これは上手い下手というよりも、急いだせいと使った筆が手に合ってないからだろう。だとすればこの投げ文を書いたのは……」
藤士郎は投げ文を書いたのは、まだ手が小さい年端もいかない娘ではと推察した。
だが、それだけでは個人を特定するのはむずかしい。
なにせ紅楼には女中だけでも二十人以上もおり、下働きなども加えたら、四十人を
越えている。ある程度年嵩な者は除外するとして、それでもまだけっこうな数だ。
するとここで、投げ文に鼻先を近づけていた銅鑼が、藤士郎にだけ聞こえるような小声でいった。
「いや、案外、すぐにわかるかもしれんぞ」
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