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其の二百二十 素養
しおりを挟む埋めた壺がよほど気になるらしい……。
今宵も松之助の生霊は本体から離れて、九坂邸の前にある雑木林に姿をあらわした。
そこで藤士郎は「やあ」と声をかけた。そして彼の身に起こっていることをぽつぽつ説明すれば、松之助はちょっと驚いた表情を浮かべたものの、これをあっさり受け入れた。
ふむ。聞き分けがよくてとても助かる。下手に取り乱して、深夜に逃げ惑う生霊と追いかけっことかしなくてすんだのだから。
藤士郎は内心でほっと胸を撫で下ろす。けれど、少しだけ引っかかりを覚えた。
素直といえば素直だ。裕福な料理屋の跡継ぎにて物腰は柔らかく、性格もおおらかで真面目である。でも裏を返せば、それは厳しい父親や周囲の言いなりで、自分の本心をちっとも表に出さないということではなかろうか。
藤士郎は、不意に首のうしろ辺りがぞくりとした。いまさらながらに地面に埋まっている壺が、なんだか怖くなったのである。
ずっと自我を殺し、本心をひた隠しにして、いつしかそれが当たり前になった男――そんな男が吐き出し続けた想いの念がたっぷり貯め込まれた壺――本当に何もないのであろうか?
でっぷり猫の銅鑼は呪術的なことは一切感じないと断じた。
だがそれはあくまで呪という一面から見た結果であって、単純な念ともなればまたちがうのではなかろうか。
虚仮の一念ともいう。
呪とは誰かに禍害を及ぼすことを願う想いや、術だ。
しかし松之助は、ただただ己の内に鬱積したものを、壺に吐き出し続けただけである。特定の誰かに向けてというわけじゃない。そりゃあ愚痴まじりにちょっとぐらい個人の悪口を漏らしたことはあるだろうが、全体としてはごくごくわずかなはず……。
そもそもの話、いかに未練や執着などの想いが強かろうと、誰もが生霊なんぞを飛ばせるわけじゃない。そんな真似が出来るということは、松之助にそれなりの素養があるということなのではなかろうか。
となれば、悪意や害意がないからこそ、やっかいなのかもしれない。
それにやたらと松之助が壺のことを気にしているのも、忘れてはならない。
ここに壺を埋めることになった経緯を知った当初は、松之助の妄想だとさして深く考えはしなかったものの、だらかとて生霊になってまで夜な夜な無事を確認しにくるのは、明らかに異常である。
妄想が膨らみ、神経が病んでささくれ立つあまりの行動と言えばそれまでだが、それだけではないような気がする。ひょっとしたら松之助は無意識のうちに危険を察知したからこそ、わざわざ壺をこんなところまで埋めにきたのかもしれない。
考えすぎであろうか……。
思案した末に藤士郎は決めた。
「よし、この壺、一度、巌然さまに視てもらおう」
◇
松之助の生霊を前にして、堂傑が一枚の懐紙を取り出した。懐紙を宙へと放り、素早く印を結び「吽」と気合いを発すれば、ひらりはらりと舞い落ちるばかりであった紙が、みずから折れてたちまち人形(ひとがた)となった。大きさはちょうど手の上に乗るぐらい。
かつてのへっぽこ陰陽師くずれとはおもえぬ鮮やかな手並み。これもまた知念寺での修行の成果であろう。
藤士郎と銅鑼が「お見事」「やるじゃねえか」と感嘆の拍手を送れば、堂傑は「てへへ」ともじもじ照れた。ひょうしに頭部の化け術がぽんと解けて、にゅうと鼬頭になった。
「えー、こほん。ではいきます」
気を取り直した堂傑が術を発動すれば、松之助の生霊がたちまち人形へと吸い込まれた。
人形に納まった松之助、紙の身をひねっては不思議そうに自分を眺めている。
それを前にして「ふぅ、成功です」と堂傑は額に浮かんでいた汗をぬぐいつつ、とんでもないことを口にする。
「あとはこの人形を丸めて当人の口に突っ込めば、分かれた生霊は元通りになりますよ」
これに藤士郎と銅鑼は揃って「えっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
だってそうであろう。
堂傑はなんてことないように言ったが、これって結構な難事であるのだから。
「まじか……どうすんだよ? 藤士郎」
「どうしよう、銅鑼」
ひらひら動く松之助の生霊が宿った人形を前にして、狐侍とでっぷり猫は「うーん」と頭を抱えた。
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