狐侍こんこんちき

月芝

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其の二百十七 忌み物

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 はき溜めの壺……中には、不平不満、愚痴、恨みつらみ、悪意や害意どころか、殺意までもが入っている。もちろん本心からじゃない。一時の激情にかられてつい吐いた言葉だ。けれども、そんなものでも積もり積もれば……。
 一度、そんな妄想を浮かべたら、もうだめであった。
 不安になってしようがない。
 かといって、こんな壺のことなんぞ、誰にも相談できやしない。
 この壺を勧めてくれた古株の仲居は、とうに不帰の客となっていた。
 壊すのも、捨てるのも怖い。
 この瞬間、松之助にとって壺はただの空壺ではなくて、忌み物になった。

 いろいろ思い悩んだ末に松之助が選んだのは、固く封をして人知れぬ場所に隠すことであった。
 だが、そうと決めたら決めたで、松之助を悩ましたのが肝心の隠し場所である。
 自分の家の庭先なんぞは論外だ。かといって、近所だと埋めているところを誰に見咎められるかわからない。心情的にはできるだけ遠いところに隠したかったのだが、紅楼の店のこともあってあまり遠出は許されない。時間と距離の縛りがきつい。さりとて人に頼める話でもない。
 どこぞに都合のいい場所はないものか。
 暇な時に散歩がてら探し求めてはふらついたり、店の者らや客の話に耳をそばだてたり、そんなときに小耳にはさんだのが、伯天流の道場のことであった。
 話していたのは、紅楼の客で、どこぞの剣術道場の一団だ。

「ぼろぼろのお化け屋敷」
「あんな寂れたところ、誰も寄りつきやしない」
「おおかた狐狸の類でも弟子にとっておるのだろうよ」

 酔ってくだをまいては、こぞってそんなことを言っていた。
 松之助は「ここだ!」と内心で手を打った。

  ◇

 空壺が、はき溜めとなり、ついには忌み物になって、処分に困って、九坂邸兼伯天流の道場と目と鼻の先にある雑木林に埋めた。
 という話まではわかった。
 だが、それとはべつに藤士郎には気になることがある。

「なるほどねえ。壺にかんしては合点がいったよ。でも、松之助さんはどうしてそんな情けない姿になってるんだい?」

 江戸屈指の料理屋紅楼の跡取り息子である松之助が、幽霊となって夜な夜なあらわれている。
 自分が埋めた壺が気になってしようがないから。
 という理由はわからぬでもないが、そもそもの話として、どうして幽霊になってしまったのか?
 話がそのことになったとたんに、松之助は「う~ん」
 考え込んでしまった。
 どうやら、その辺のことになると記憶が曖昧で、頭の中に靄がかかったようになるらしい。

 足のない姿でふよふよ浮いている松之助を横目に、藤士郎と銅鑼は額を付き合わせてこそこそ話をする。

「ねえ、銅鑼。話を聞いたかぎりでは、よくある跡目争いのような気もするんだけど」
「たしかによくある筋だな、藤士郎。後妻が産んだ我が子可愛さに……ってやつか」
「でも、松之助さんは弟に跡継ぎの座を譲ってもいいと考えていたんだよねえ」
「そこはそれ、当人がその気でも、親父さんがおいそれとは許さんだろう」
「あー、話を聞いたかぎりでは厳しいお人みたいだしねえ」
「となれば怪しいのは後妻のお梅だが、だいそれたことだ。女ひとりでできることとも思えん」
「協力者がいる?」
「もしくは店に身中の虫がいるかだろう。だがそれ以前にちょいと妙だな……」

 ここでいったん口をつぐんだ銅鑼が眉間にしわを寄せては、何事かを考え込んでいる。
 邪魔をせぬよう、待つことしばし。
 ふたたび口を開いて銅鑼はこう言った。

「あの紅楼の息子だぞ。それが死んだにしては、ちっともそのことが世間に漏れていないのは、どうしたわけだ?」

 大店や名店に不幸があれば、大なり小なり噂になって、人の口の端にのぼるというもの。
 ましてや瓦版屋が喰いつきそうな種がある話なればなおのことであろう。
 藤士郎と銅鑼はそろって「はて?」と小首を傾げた。


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