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其の二百十六 はき溜め
しおりを挟む若い男の幽霊は母志乃が声をかけるなり、悲鳴をあげて逃げたという。
だから藤士郎と銅鑼は慎重に近づき、相手を驚かさないように気を遣いながら「もし、もし」と控え目に呼びかけてみた。
「夜分に恐れ入ります。私はそこの家の者で、九坂藤士郎と申しますが……」
これに相手は少し驚いた表情をするも、逃げることはなかった。
ばかりか、ややぼんやり気味ではあったが丁寧にお辞儀を返してきた。
挨拶がてら、二言三言、言葉をかわしているうちに、どこか酩酊状態のようで虚ろであった若い男の幽霊の表情もしゃんとしてきて、受け答えがしっかりしたものになる。ぼやけていた輪郭も心なしかはっきりしてきた。
そこで藤士郎が相手の正体について尋ねたところ――。
若い男の幽霊の名は松之助といい、なんと! あの紅楼(べにろう)の長男だというから驚きだ。
紅楼は、東両国の駒留橋(こまどめばし)にある料理茶屋で、料理屋番付ではいつも上位につけている江戸屈指の名店である。幕閣や諸大名のお歴々が、こぞってお忍びで出かけることでも有名で、当然ながら貧乏道場主である藤士郎には、とんと縁のない場所だ。そんな狐侍ですらも知っているほどの店ということである。
まぁ、それはさておき、問題は例の空壺だ。
どうして紅楼の息子が、こんな寂しい処に夜な夜な化けて出ているのか? それにこの空壺が関係しているのか?
そこのところを尋ねてみれば、松之助はこんなことを言った。
「その壺ですか? はい、たしかに自分が埋めたものです。えっ、中身が空? そりゃあ、そうですよ。だって壺の中にあったのは、自分がこつこつ吐き貯めた愚痴なんですから」
ますますもってわけがわからない。藤士郎と銅鑼はそろって首を傾げる。
なのでより詳しい説明を求めたところ、松之助の言うことにゃあ……。
◇
紅楼は云わずと知れた名店である。
そこの跡取り息子として産まれた松之助は、たいした身代持ちにて恵まれた境遇だ。はたから見れば羨ましい身分であるが、いざ当事者となればちがってくる。
幼い頃に母親を亡くし、家業の忙しさもあって、寂しい子ども時代を過ごす。
そして育つに従って、今度は父親の当たりがきつくなってきた。それは死んだ妻に代わって我が子を一人前の男にしよう、立派な跡取りにしようという親心の裏返し。
そんなことは松之助とてわかっている。だがいくら頭では理解していたとはいえ、感情はまた別だ。
じきに周囲の強い勧めもあって、父親が後妻をもらった。後妻の名をお梅という。
やがてお梅との間に子が産まれ、竹太郎と名づけられた。
「やれ、これで松竹梅がそろった。いや、めでたい」
父親はそのようなことを周囲に漏らしては、第二子の誕生を喜んだ。
では松之助はどうであったのかというと、彼も歳の離れた弟を、それは目の中に入れても痛くないぐらいに可愛がった。
肉親の情に飢えていた松之助は、無垢な赤子に夢中になった。
しかし竹太郎が育つほどに、父親の言動が鼻につくようになっていった。
自分にはがみがみと口やかましい。ことあるごとに「だからおまえはだめなのだ」と頭ごなしに説教をくれる。
なのに竹太郎には頬をゆるめっぱなし。
自分の子どもの時分とはえらいちがいである。
べつに松之助は、お梅や竹太郎に対して含むところは何もない。
先妻と後妻との子ども同士の確執、お家騒動など起こすつもりも毛頭ない。
もしも父親が竹太郎可愛さに「この子に紅楼を継がせる」と言い出せば、あっさり身を引いてもいいとすら考えていた。
とはいえ、それはそれである。
日々、積み重なるばかり、鬱屈した想いはいかんともしがたく……。
これを見かねたのが、松之助を小さい頃から知る店でも古株の仲居だ。
「このままでは、いずれ膨らんだ紙風船みたいに、ぱんって割れてしまいますよ。不平不満をあんまり貯め込むのはよくありません」
仲居はそう言いながら差し出したのが壺である。
どこにでもあるふつうの壺だ。
松之助がきょとんとしていると仲居が目元を細める。
「だからですね。いらいらしたり、悔しかったり、怒ったり……、そんな時の愚痴をこいつにぶちまけるんです。こうやって、壺に顔を近づけて、馬鹿野郎ーっ! といった感じで。なぁに、騙されたとおもってやってみなさい。思いの丈を吐き出すだけでも、ずいぶんと楽になるもんですから」
他にも日記に書き記すという手もあるが、こちらは現物が残るので、誰かの目に留まればのちの火種になりかねない。その点、壺ならば安心だ。なにせ吐いた言葉というやつは、姿が見えないのだから。だからとて表で大声を張り上げては、どこの誰に聞かれているのかわかったものじゃない。
かくして試してみると、案外、これがすっきりする。
「なるほど、貯め込むのが良くないのか」
松之助も得心がいったものである。
おかげでさまで、松之助も心の平穏を取り戻し、ずいぶんと余裕もできた。
となれば、外聞も悪いことだし、そろそろ壺に愚痴を吐くのも止めようかという段になって、困ったのが壺の始末である。
ただの空壺だ。そのまま割るなり、捨てるなりすればいい。
でも、散々に愚痴をぶちまけてきたもので、壊したとたんに、目には見えない中身が一斉に表に飛び出してくる――そんな妄想がふと松之助の脳裏をよぎった。
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