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其の二百十四 叫び男
しおりを挟む江戸もすっかり寝静まっているなか、なにげに賑やかであったのは、くらやみ坂をのぼった先にある九坂邸だ。伯天流という看板をかかげている剣術道場なのだが、門下生は絶えてひさしく、剣術界から目の仇にされていることもあって、いつも閑古鳥が鳴いている。
おかげでせっかくの道場も使うのは、家主である藤士郎が朝稽古の時ぐらい。
だからとて遊ばせておくのはもったいない。
というわけで、いまでは猫又たちの踊りの稽古場として提供しているものだから、夜ごとにけっこうやかましい。
成り行きでこういう仕儀になったものの、いまでは藤士郎も良かったと考えている。
なぜなら、九坂家にはあの世から出戻っている志乃がいるからだ。
季節外れの風邪をこじらせぽっくり逝ったとおもったら、志乃は四十九日の法要を終えたとたんに「ただいまー」と帰ってきた。
ふわふわした身となった母は、朝から元気に家事をこなす働き者にて、世にはびこる幽霊という概念をことごとく覆している。だがいくつかの制約を帯びた身でもあった。
ひとつは家の敷地内から、ただの一歩たりとも外には出られないということ。
だからとて、その土地に因縁があって縛られる地縛霊というやつとはちがう。
志乃によれば家や建物などに憑く「家霊(かれい)」という存在であるらしい。
そして、いまひとつは眠りを必要としないこと。
一見すると、「おや、それはかえって便利なのでは?」と思われる。
その考えはおおむね当たっている。常人が一日の半分を寝て過ごすのに対して、丸々一日を自由にできるのだ。その優位性、時間がもたらす恩恵は計り知れない。
が、それもあくせく現世を渡っている生者なればのこと。
死者にとって、ひとりで過ごす夜はとても長い。
かといって、ばたばた騒げば息子の安眠をさまたげることになる。
幽霊は幽霊らしく、ひゅうどろどろどろ~、と静かに息をひそめるしかなかった。
その孤独を埋めてくれたのが、道場に出入りをしている猫又たちや、ときおり顔を出す河童たち。他にも裏の竹林に住んでいる狸一家らが相手をしてくれるので、もう寂しくはなかった。
それは草木も眠る由三つ時のことであった。
次のお披露目会の準備に余念がない猫又たちに、お茶とお茶請けの差し入れをしようと、志乃が台所で準備をしていたら「あら?」と顔をあげた。
ふと、感じたのは何者かの視線と気配である。
時刻が時刻であり、処が処である。
盗人が忍び込むような家でもなし。
「いったい誰かしらん」
どうにも気になった志乃は、視線の主をたしかめるべく、気配のする方へと向かった。
気配がしていたのは開かずの正門の向こうからだ。
門の建物自体が歪んでおり、正門はもとより脇にある潜り戸も固くて、開けるのにこつがいる。そのせいで藤士郎なんぞは横着をして、潜り戸を使わずに外壁の割れ目から出入りをしていることを、母志乃はちゃんと知っている。
志乃は潜り戸の門扉を慣れた手つきにて、少しだけ開けた。
べつに幽霊の身なので、いちいち戸を開けずとも、するりと通り抜けて、外をのぞけば済む話なのだが、それはしない。なんとなくはしたない気がする志乃であった。
ぎぃ……。
夜更けに建付けの悪い木戸が鳴く。
開いた隙間から、そっと表をのぞいてみれば、道をはさんだ先、雑木林の中にぼんやりと浮かぶ白い人影があった。
若い男であった。
歳の頃は息子の藤士郎より、少し下ぐらいであろうか。
町人……、それも長屋暮らしなどではなくて、どこぞの商家の子息といった風である。
やつれており、顔色がすこぶる悪い。
とはいえ、それはしようがない。だって、若い男は志乃と同じ幽霊なのだもの。
志乃は家霊ゆえに、自由に外を出歩けない。
そして九坂家を訪ねてくるのは、もっぱら妖や狐狸の類ばかり。
なにげに自分以外の幽霊をはじめて目にした志乃は、興味深々である。
だから「もし、そこの御方」と声をかけてみた。
しかし返事はない。
若い男の幽霊はぼんやり、夜空を流れる雲を眺めているばかり。先ほど感じた視線もたまたまであったようだ。
なおも志乃が「もし、もし」と声をかけ続けていると、ようやく若い男がこっちを向いた。
どうやら、自分が呼ばれていると気づいていなかったようだ。
瞳は虚ろにて、どこか呆け顔。
でも、潜り戸の隙間から顔を出しては、「おいで、おいで」と手招きしている志乃を見るなり、みるみる顔色をかえて「きゃーっ!」と叫んでは、たちまちその姿がかき消えてしまった。
これには志乃もしばし唖然とするも、じきに「まっ、失礼しちゃうわ」とぷんぷん怒って戸をばたんと閉めた。
けれども、次の日の夜のことであった。
またぞろ同じ気配がしたもので、志乃は眉間にしわを寄せて小首を傾げることになる。
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