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其の二百十 女形(おやま)
しおりを挟む匕首を持った町人風の若者が近づいてきたところで、やにわに魚心が撒いたのは砂であった。
これを顔に受けて「あっ」
少し目に入ったらしく、町人風の若者が「この野郎!」と涙目で凄んだところで、すたこらさっさと逃げ出す魚心の姿があった。
「なっ、往生際が悪いぞ。あの女がどうなってもいいのかっ」
「よくはない。だが、俺は我が身もかわいい。だからこうする」魚心は言うなり、声を張った。「わー、わー、ひとごろしー、ころされるー」
ひとり騒ぎ、魚心が五重塔の方へと駆けていく。
「ちっ、まずい! いらぬ騒ぎになったら面倒だ。すぐに殺れ」
予想外の展開に慌てた殺し屋一味が、ひとりを女の見張り役に残して、すぐに魚心を追いかける。
それらが充分に遠ざかってから、藤士郎は音もなく木陰より姿をあらわす。
不意打ちにて見張り役の身形のいい侍を倒そうと近づく。だが人質であった高島屋の奥方が、ついびくりと身じろぎしたもので、寸前に悟られてしまった。
侍が振り向きざまに刀を抜く。
藤士郎も愛用の小太刀・鳥丸を抜く。
ちんっ!
かすかに刀が交わる音が響いた次の瞬間、「ぐぅ」と苦悶の声を漏らし、倒れていたのは侍の方であった。
袈裟懸けに弧を描いた長刀、鋭い一刀が当たる間際に、藤士郎は刀身を横合いから柄頭にて小突き軌道をそらす。刹那、峰打ちを相手の肝臓の辺りに見舞う。
こうして見張り役を倒した藤士郎は、すぐに「助けにきました。もう大丈夫ですよ」とかがんで震えている女に声をかけたのだが……。
さらわれて人質にされていた高島屋の奥方……、頭から羽織をかけられて、顔を隠され目隠し代わりにされていたのだが、いざ、間近に接してみて藤士郎は何やら違和感を覚える。
はっとした藤士郎が後方へ跳び退るのと、女が羽織をとって立ち上がるのは、ほぼ同時であった。
羽織の影から突き出されたのは短刀だ。
あわや、であった。もしも考えなしに近寄っていたら、ぶすりとひと突きされているところであった。
「ちいぃっ、勘のいい野郎だねぇ」
羽織の下から姿をあらわしたのは、女形であった!
殺し屋一味は七人組ではなくて、八人組だったのだ。
人質に化けて、もしもの時に備えていたのである。なんという用心深さ、周到さであろうか。
藤士郎と魚心が一杯食わそうとたくらんでいたのと同じく、敵勢もまたたくらんでいたのである。
互いにまんまとしてやられたわけだが、では肝心の高島屋の奥方は何処に?
それを女形から聞き出したい藤士郎であったが、まるで舞台の殺陣(たて)のように流麗かつ苛烈な攻めが、その暇を与えてくれない。
やむをえず、藤士郎はすれ違いざま、小太刀の峰にて女形の後頭部に一撃を入れて、昏倒させた。
両膝をつき、どうと前倒しになった女形を見下ろし、藤士郎は思案顔となる。
「参ったね。まさか、もう……。いや、それはないね。だって、それをやったら、あの高島屋を敵に回すことになる。あれほどの身代を誇る老舗の店主を怒らせたら、命がいくつあっても足りやしないはず」
あり余る財を注ぎ込まれて首に懸賞金でもかけられたら、それこそ命がいくつあっても足りやしないだろう。
というか、完全に割に合わない。損得勘定に聡い裏稼業の人間が、そんな真似をするわけがない。
だから、きっと大丈夫なはず。
「っと、それよりもいまは魚心さんを追いかけないと。この期に及んでも武器を手に取らない覚悟は立派だけど、おもったよりも手練れ揃いだし、いかに魚心さんが逃げの達人でも、さすがに危ういかも」
ゆえに、すぐに魚心が逃げた方へと駆け出そうとした藤士郎であったが、その時のことであった。
木陰より、のっそりとでっぷり猫の銅鑼が姿をあらわした。
意外なところで会ったもので、藤士郎が驚いていると、銅鑼は言った。
「止めてけ藤士郎、これ以上深入りをするな。いやなもんを見るはめになるぞ」
いきなりである。
藤士郎はたいそう面喰らうも、銅鑼はいつにない真剣な表情であった。
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