狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
203 / 483

其の二百三 子どもの目

しおりを挟む
 
「ぶぇっくしょん!」

 遠慮のないくしゃみをしたのは魚心であった。

「あー、隅田川の水はけっこう冷たいねえ。でも、淀川(よどがわ)の流れほど厳しくないからよかったよ」
「えっ、淀川でも泳いだんですか?」

 藤士郎は呆れ顔で、濡れた着物をぎゅっと絞っている。
 小舟を漕いで、まんまと柳生一門を出し抜いたのまではよかったのだが、その小舟は穴あきだらけにつき、じきに沈んでしまった。
 さいわいふたりとも水練は積んでいたので、すいすいと岸まで泳ぎつき、いまへと至る。
 なお淀川は、上方の川で、京の都と浪速(なにわ)の海を繋ぐ大動脈である。
 ちなみに流れはけっこう急で、水量多く、あまり泳ぐことはおすすめできない。
 行く先々で襲われている魚心は、上方でも似たような目にあったらしい。
 ふつうの神経であれば、そんな目にあえば水や舟が苦手になりそうなものなのに……。

  ◇

 吉原の貴祢太夫からの頼まれごと。

『妖怪骨牌(ようかいかるた)の出処を探って欲しい』

 その出処を探るうちに、制作にかかわった絵師へと辿りついたものの、成り行きで無礼討ち騒動に巻き込まれ、藤士郎は原因となっている魚心こと佐々木織部(ささきおりべ)を守ることになった。
 しつように狙われ、このままではおちおち話もできやしない。
 そこで治外法権に近い吉原へと行って、貴祢太夫に庇護を求めようと考えた藤士郎であったが、さすがに濡れ鼠では中に入れてもらえない。入り口を守っている四郎兵衛会所の男たちに、摘まみ出されるのがおちだ。
 そこでたまさか近くにいた猫にこっそり声をかけて、「悪いんだけど、和田屋の誰かを読んできてくれないか」と頼む。
 すると藤士郎らが潜んでいるところにやってきたのは、辰巳芸者の生駒であった。
 深川の置屋である和田屋は猫又の巣窟にて、そこに所属する者たちはみな猫又である。
 藤士郎は猫又たちとは縁があって、貸し借りが降り積もり、いまや切っても切れぬ仲だ。その伝手を頼って、助力を乞えば、生駒は快く応じてくれて、すぐに着替えと駕籠を用意してくれた。
 おかげで周囲に正体を気取られることなく、藤士郎たちは秘密裏に吉原入りができた。
 その足で大黒屋へと向かった。

  ◇

 大黒屋を一躍、吉原有数の名店へと押し上げたのは貴祢太夫である。
 ゆえに彼女の鶴の一声にて、藤士郎たちはあっさり奥へと通された。
 ふつうであれば数百、いや、下手をすれば千両箱を積んでも会ってもらえないような美姫を前にして、魚心は「ほうほう」と遠慮のない視線を向ける。
 根っからの絵狂いである、この男にとって貴祢太夫は、ぽーっとのぼせる相手ではなくて、あくまで絵の題材として興味を抱くか、否かの存在でしかないようで、その目はどこか蟻の列を飽くことなく観察している、子どもの目に似ていた。

 藤士郎はその様子をちらり盗み見て、内心でぞっとしている。
 魚心がいろいろと問題行動を起こしているのは、重々理解していたつもりであったが、これこそが魚心の本質であったのだ。
 魚心にとっては世界は、描くべき物か、描く気にならぬ物でしかないのだ。すべての絵師がそうなのかはわからない。けれども、この男……やはりおかしい。ちょっと変わっているとかという程度ではない。人間としての根幹が致命的にずれている。狂人一歩手前のような危うさを感じる。

 一方でそんな不躾な視線にさらされている貴祢太夫はというと、その視線を平然と受けとめ、まるで動じず。

「ほぅ、その男があの迷惑な骨牌の……。ふむ、どれ」

 貴祢太夫は、お返しだとばかりに、じっと魚心を見つめる。
 夜ごと男どもを惑わし、小判を貢がせる艶めかしい目を向けること、ほんのわずか。

「なるほど」と貴祢太夫は独りごちる。「いろいろと厄介事を引き寄せる星の下に生まれたようだが、さりとてこの男が一連のことを画策したわけではなさそうですね」

 その性質を見抜かれて、利用されただけのこと。
 貴祢太夫は、そう断じた。
 どうして彼女にそんな芸当が出来るのかというと、それは彼女の正体が人間ではなくて、貧乏神だからである。
 だが、こうなると問題は、誰が利用したのか? ということになる。
 当然ながら怪しいのは妖怪骨牌の版元なのだが……。

「そのへんは、どうなっているんですか?」

 藤士郎が核心に切り込むと、魚心はあっさり「知らん。ある日、いきなり話を持ちかけられた。不思議なことに、おれがどこに居ようとも、向こうから約束の期日になれば、ひょっこり顔を出すもんでな」と言った。

 おかしな話である。これには藤士郎も貴祢太夫も眉根を寄せた。


しおりを挟む
感想 138

あなたにおすすめの小説

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

野槌は村を包囲する

川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。 村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

御様御用、白雪

月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。 首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。 人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。 それは剣の道にあらず。 剣術にあらず。 しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。 まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。 脈々と受け継がれた狂気の血と技。 その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、 ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。 斬って、斬って、斬って。 ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。 幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。 そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。 あったのは斬る者と斬られる者。 ただそれだけ。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

処理中です...