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其の二百二 川の中
しおりを挟む魚心から合図がきた。
掘っ立て小屋の中へと駆け込んだとたんに、藤士郎は「うっ」鼻と口に手を当てる。
内部にはもうもと白と黒の煙が入り混じり、充満しつつあった。そこかしこで、ぱちりぱちり、小さな赤がはぜる音がする。
何を、こそこそたくらんでいるのかとおもいきや、魚心はせっせと火をつけていたのだ。
川原にて吹きっさらし、ほこりもたまっていたから、瞬く間に火は広がっていく。
「って! ちょっと、魚心さん」
つい、藤士郎は詰問口調となった。
逃げる算段をつけているはずなのに、飛び込んだ死地をさらに過酷にして、いったいどうする?
だがそんな藤士郎の焦りなんぞ、魚心はどこ吹く風だ。
「たかだか火ぐらいで慌てなさんなよ。そんなに心配性だと、じきに禿げるぞ」
「なっ!」
「それよりも、手伝ってくれ。ここを、おもいきり蹴飛ばすんだ」
言いながら、がしがし魚心が蹴っていたのは、小屋の奥、明かりとりの小窓の下の羽目板であった。この小屋は木材と板で組んだだけの粗末なもの、その中でもいっとうもろそうな場所であった。
魚心はそこを蹴破って、脱出するつもりらしい。
火は敵勢の目を欺き、煙をあげることで江戸の衆の耳目を集めるため。火事と喧嘩は江戸の華、物見高い連中がここぞとばかりに押し寄せるだろう。そうなれば、もう戦いどころではない。それを狙ってのことであった。
藤士郎と魚心、ふたりがかりにて壁を破ってまんまと抜けだ……せない!
柳生一門とて、馬鹿ではない。座してそれを見送るほどぬるくはない。
半月の陣が、いつのまにやら満月の陣となって小屋をぐるりと囲んでいた。
そしてひょっこり燃え盛る小屋から出てきたふたりへと斬りかかる。
が、そこで「あらよ」と魚心が放ったのは、ぼろぼろの漁網だ。掘っ立て小屋の中にて、なかば放置されて、すっかり埃まみれになっていたものである。
用意がいい……、魚心はこの展開をも見通していたようだ。そして、なにげに投網が巧い。放たれた網が宙でぱっと広がって、近づいてきた数名の頭上から覆いかぶさっては、たちまち絡め捕る。
もがくほどにより網が絡まる。穴あきだらけで漁の役には立たなそうな品も、大きな人間相手だと、いい仕事をする。
それを横目に魚心が言った。
「さぁさぁ、いまのうちに」
そうして向かったのは土手の方、ではなくて川の方であった。
みずから背水の陣?
内心で首を傾げつつも、藤士郎は魚心の背について行く。
襲撃され馴れしている魚心が、その過程で身につけた機知と逃亡術を、いまや藤士郎も認めざるを得ない。ただし、不安はいささか残っている。
魚心が川近くの繁みへと向かっていたのは、そこにお目当ての物があったからだ。
草に埋もれるようにして、のぞいていたのは小舟の舳先であった。
あの混乱、火事場のさなかに目敏く見つけていたのだから、藤士郎は感心するやら呆れるやら。
まんまと小舟を手に入れたふたりは、これを「わっせ、わっせ」と押し、そのまま隅田川へと漕ぎ出した。
その頃には、すっかり大きな焚き火と化していた掘っ立て小屋のおかげで、土手の上には「なんだ?」「どうした?」と野次馬が集まり始めており、騒ぎになっていた。おっつけ火消連中も駆けつけるだろう。連中は威勢がよくて鼻息が荒い。
もしも現場に不審な侍たちがいれば、臆することなく先端に鳶(とび)のくちばしのような穂先をつけた鉄棒・鳶口(とびぐち)を手に、「やいやい、てめらっ!」と突っかかることは明白であった。
江戸火消しと侍どもの乱闘騒ぎなんぞは、かっこうの瓦版の種である。
それを厭うたのか、柳生一門もこれ以上の襲撃を断念し、すみやかに引きあげた。引き際もまた見事であった。
かくしてどうにか虎口を逃れた藤士郎たちであったのだが、ほっとしたのも束の間、何やら足下が冷たくなってきたような……。
「げっ、魚心さん、この舟、底に穴が開いてる!」
「おや? だから、あんなところにうっちゃってあったのか」
藤士郎は慌てて手拭いで穴を塞ぐも、塞いだ端からべつの穴から水が侵入してくる。
そうこうしているうちに、小舟はみるみる沈んでいって、ついにふたりは川の真ん中で放り出されることになってしまった。
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