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其の百九十 羅生門の鬼
しおりを挟む隅田川から日本堤沿いを行けば、見えてくるのが衣紋坂(えもんざか)。坂の手前に生えている見返り柳を横目に、くねった坂をおっちらのぼれば、姿をあらわすのが高い塀とお歯黒溝に囲まれた吉原遊郭。
唯一の出入り口である大門。そこを潜ればたちまち世界が煌びやかで艶やかとなるも、それにまぎれて突き刺さるのは険のこもった視線……。
藤士郎は、ややずれていた編み笠をまぶかにかぶり直す。
視線の正体はわかっている。四郎兵衛会所に屯(たむろ)する男たちから向けられるものだ。四郎兵衛会所は遊女たちの逃亡を監視するところにて、吉原の人の出入りにも目を光らせている。
どうやら明らかに場馴れしていない、それでいて見返り柳みたいにひょろりとした若いのがあらわれたので、見張り連中の気を惹いてしまったようだ。
けれども待合の辻にて、大黒屋(だいこくや)からの遣いの者による出迎えを受ける姿を目にしたとたんに、こちらに向けられていた視線がたちまち霧散した。
大黒屋は吉原でもっとも勢いがある名店。
かつては吉原番付でもせいぜい中の中ぐらいであったのだが、それをいっきに今の地位にまで押し上げたのが、藤士郎がこれから会おうとしている人物。
夢枕に立った父平蔵からご機嫌伺いに行くようにと頼まれたものの、おんぼろ道場主である若造がほいほい訪ねて行ったとて、門前払いされるのがおち。
なにせ相手は現在の吉原に三人しかいない、花魁のうちの一人なのだから。
豪商や大大名が千両箱を積んでも、おいそれとは会ってくれないような高嶺の花。
当初は忍び込むことも考えたが、ばれたら面倒なことになる。けれども思わぬ縁にて文を届けることができたのは僥倖であった。
その縁とは猫又芸者たち。彼女たちとは何かと縁のある狐侍。芸事繋がりで誰か伝手はないかと相談してみたら、大黒屋に稽古事の師匠として出入りしている者がいた。
それで文を届けてみたら意外にも「お待ちしております」との返事にて、いまのような仕儀となった。
迎えの者に連れられて吉原の中央通りである仲の町を進む。
ふつうであれば左右に軒を連ねる引き手茶屋から、おしろいをつけた遊女たちから格子越しに「おいで、おいで」と誘われるのだが、だれも藤士郎に声をかける者はいない。
それは彼が大黒屋の客だとわかっており、ちょっかいを出すだけ無駄だから。
途中、角を曲がり西河岸方面へと。
その際、先導する迎えの者から「間違ってもあちらには近寄らないように。あなたみたいな方が行ったら、たちまち鬼の手に引かれて餌食にされてしまいますので」と言われて、藤士郎はぎょっ!
が、これは場を和ませようする戯言。
彼が言ったのは本当の鬼ではなくて、東河岸にいる女郎たちのこと。あちらは西に比べるとかなり格が落ちる区画。それゆえに商魂逞しく、みな必死。一度客の袖や腕を掴んだら離さないことから「羅生門の鬼」と言われているんだとか。うっかり迷い込んだが最後、初心な若造なんぞは寄ってたかって喰われて、身ぐるみを剥がれてしまう。
迎えの者は目を細めつつ「せいぜいご用心を」とくすり。
藤士郎はこくこくとうなづくばかりであった。
案内され足を進めるほどに周囲の景色が変わってゆく。
華やかな雰囲気はそのままに、仲の町の喧騒がやや遠い。
雑多な感じがみるみる抜け落ちていき、あとに残ったのは洗練された格と粋。
高級な大店が集まる区画へ入ったとたんに、空気のみならず漂う匂いまでもががらりと変わった。藤士郎の脳裏にぱっと浮かんだのは竜宮城という言葉。そこは物語に登場する別世界のようなところ。まるで夢にまぎれ込んだかのような錯覚に囚われる。心がふわふわとしてどうにも頼りない。それでいてすべてが淡く儚げで、触れたら消えてしまいそうで……。
幻想のような場所にそびえる四重の立派な楼閣、それが大黒屋。
武家屋敷や寺社、日本橋の大店ともちがう、どこか異国の風を感じさせる形状の威容を前にして、藤士郎はごくりと唾を呑み込んだ。
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