狐侍こんこんちき

月芝

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其の百八十三 塵に還る

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「吽、阿毘羅吽欠娑婆呵」

 大日如来に祈る言葉を口にしながら、巌然が御札ごと独鈷杵(とっこしょ)を地面に突き立てた。
 独鈷杵を中心にして一瞬、青白い稲光が走り、三丈四方を覆う結界が生じる。
 ただしこれは身を護るためのものではない。
 自分ごと獲物を閉じ込めるためのもの。

「ここで逃がすわけにはいかんからな。悪いが朝まで付き合ってもらうぞ」

 逢魔が刻にあらわれ、東雲(しののめ)とともに去る狂骨。陰と陽の世界が入れ替わるのとともに、するりといなくなる。もしもここであちら側に戻られては、今宵の苦労がおじゃんになる。ばかりか学習した狂骨にはもう同じ手は通用しない。もしも対決を次に持ち越せば、より手強くなってしまう。
 だから特別な御札を使い、巌然は勝負に出た。
 残る梵字の数は三。互いの退路を断ち、いっきに勝負を決する所存。
 けれどもこれは狂暴な熊と同じ檻の中に身を置くようなもの。術者である巌然を倒さねば結界から抜けられぬことを悟った狂骨が、遮二無二襲いかかってくる。
 逃げ場のない結界内。ゆえに巌然は逃げない。むしろみずからすすんでがっつり組みにいく。
 鍛え上げた肉体を武器に敢然と狂骨に立ち向かう。
 これにより生者と死者が角力をとるかのような格好となった。

「ふんぬ」と顔を紅潮させ、全身の筋肉という筋肉を駆使して狂骨の抑え込みにかかる巌然。ことここに至っては強引に押し切るしかない。
 対して狂骨は組ながら、相手に噛みつき、爪を立て、引っ掻き、ときに肋骨を開いては蟲の口のように動かし、くわえこもうとしてくる。先ほどはあれほど嫌がった密接状態にもかかわらず、猛然と攻めてくるのは、はやくも耐性がついたからか。

 法衣を突き破り、皮膚を裂き、肉にまで食い込み、さらにその奥を侵そうとしてくる骨の攻撃に巌然が苦悶の表情となるも、それでも真言を唱えるのはやめない。
 体と命を張ったぎりぎりのせめぎ合い。傷つき血塗れにながらも相手の身に梵字を描いた巌然。ついに残り一文字となった。
 だがここで巌然の体から急に力が抜けた。狂骨によってつけられた傷を中心にして、肌に広がる黒染み。闇の浸蝕! 閉じた空間内にて狂骨と肌を重ねたがゆえに起きた霊障。ふだんの巌然であれば内に充ちた生気にてはね返せるのだが、いまは消耗が激しくそれもままならない。

 かたかたかたかた……。

 ついに膝をついた巌然を狂骨が嘲笑う。
 そして止めを刺すべく骨手をのばしたのだが――。
 突如として地面が光りだし、浮かび上がったのは文様。
 巌然がにやりと不敵な笑み。「悪いが仕込ませてもらった」
 取っ組み合いの最中、足で地面に描いていたのである。
 これに慌てたのが狂骨。すぐさま逃れようとする。
 さらされた無防備な背中、そこへ気力を振り絞って巌然が最後の梵字を刻む。
 かくして術は完成した。
 たちまち狂骨の身が白い炎に包まれ、響き渡ったのは「あぁあぁぁぁぁぁぁぁっ」という絶叫。
 苦しそうにもがく狂骨。炎の輝きがずんずんと増し燦々と。ついには目を開けていられないほどになった。それはまさに日輪のごとし。
 そしてついに最期の刻を迎える。
 止めを刺したのは白じみだした東の空から届いた一条の陽光。
 まるで狂骨を貫くかのようにして胸元に吸い込まれた光、それを受けたとたんにぼろぼろと崩れだす骸骨。砕けた骨が細かな破片となり、灰となり、塵となる。
 狂骨が消滅していく。
 それをどうにか見届けていた巌然は、経を唱える。それは道を誤った同胞に対する送別のためのもの。
 すべてが塵となり、静寂が訪れるのと同時に、巌然もついに力尽きた。


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