182 / 483
其の百八十二 炎の抱擁
しおりを挟む藤士郎が丘の下で亡者ども相手に奮戦していた頃。
丘の上では巌然と狂骨が対峙していた。
護摩壇の炎に照らされながら、にらみ合う両者。
左手に持った数珠をかざしつつ、経を唱え続ける巌然。つねに一定の距離を保ち、狂骨が焦れて襲いかかってきたところをひらりとかわし、すれ違いざまに相手の身に血文字で梵字を描く。一瞬の早業、これまでに数えきれないほどに御札を書いてきたおかげで、息をするかのようにして淀みなく動く指先……。
対して狂骨は一文字刻まれるごとに苦悶し、かたかたと骨の身を震わせる。梵字が増えるごとに内から湧いてくる衝動は激しくなるというのに、それをぶつけるべき男にはいいようにあしらわれ、ままならぬ。行き場を失くした衝動が己の中でぐるぐると渦を巻き、より苛立ちを募らせる。
狂骨に攻撃は御法度。法力でも刀剣によるものでも与えたら、すぐさま反動が起きて狂骨が強化される。それに比べれば直接梵字を描く方法での調伏は、その現象を誘発しない。とはいえ数を重ねるほどに、狂骨がより暴れるようになる。
これを制御しつつ、場を支配する巌然はすでに汗だくとなっていた。
その身に描かれた梵字の数が十三となったとき、狂骨が亡者の群れを召喚する。しかしこれは藤士郎が対処してくれている。
梵字の数が二十五となったとき、狂骨の動きに変化が生じる。人のそれから、より獣じみたものへと。身を低くし、ともすれば手をついて四つん這いとなり、オオカミのように跳びかかってくる。より素早くなり狂暴性も増した。
梵字の数が三十二となったとき、いきなり飛んできたのは骨。煩わしい経を唱えながら逃げる巌然に業を煮やした狂骨が、自分の肋骨のひとつを投げつけてきたのである。至近距離での投擲。よもやの行動に巌然は対応できず。結果、前に突き出していた左手の甲にこれを受けてしまい、数珠を取り落とし「あっ」
巌然はすぐに拾おうとするも、させじと突っ込んできた狂骨。掴まるわけにはいかぬので巌然がさがった隙に、狂骨に蹴飛ばされた数珠は護摩壇の炎の中へと。
梵字の数が四十ともなると、巌然に疲労の色がぐっと濃くなった。歩く仁王像との異名を持つ男をしても、精神的疲弊に引きずられて体の動きが鈍くなっていた。それも無理からぬこと。本来であれば十人もの徳高き僧らが集団で行うべき調伏の儀を、たったふたりで行っているのだから。相手を牽制しながら唱える読経、ほんのわずかにでも気を抜けば、たちまち効力を失う。失った数珠のかわりに独鈷杵(とっこしょ)を取り出し、近づいてくる狂骨を「吽」とはね返す。
梵字の数が四十八となった。残りは五文字。合計五十三文字の梵字を刻むことで、狂骨となった英舜を救うことができる。
だがここにきて狂骨の狂暴性がいっきに数段増した。
護摩壇の周囲をじりじりと移動しながら対峙していた巌然と狂骨。突如として身を翻した狂骨。まさかの逃亡?
驚いたのが巌然、ここで逃げられては元の木阿弥。慌てて追いかける。するとさっと護摩壇の陰に隠れるようにして移動した狂骨。一瞬その姿を見失った巌然であったが、次の瞬間には驚愕に目を見張ることになる。
燃え盛る炎の奥から消えた狂骨があらわれたからである。あろうことか炎を突き抜けての襲撃! 骸骨であるその身は炎に焼かれこそすれ、火がつくことはない。にもかかわらずその身が火に包まれていたのは身に着けていたぼろの法衣のせい。
突っ込んできた火だるま。
巌然は避けきれず。ついに狂骨の手が巌然に届く。ばかりか抱き着かれ、組み敷かれたひょうしに燃え移る火。
鍛え上げた頑強な巌然の身が押し倒された。それすなわち狂骨の力が増している証左。掴んだ骨の手、肉に食い込む指先が熱い。じりじりと巌然の肌を焦がす。
どうにか振り払おうとする巌然であるが、しつようにまとわりついてくる狂骨。
そうしているあいだにも巌然の身は炎の浸食を受ける。
このままではまずいと判断した巌然は、狂骨を突き放すのではなくて太い両腕にて抱き寄せるなり、ごろごろと地面を転がった。こうすることで火を消そうとしたのである。その狙いは功を奏し、燃え広がりはじめていた火は小火で済んだ。
この熱い抱擁を嫌ったのは狂骨。一転して逃げ出そうと足掻く。その理由は巌然の懐にあった御札の束。いまの状況、狂骨にしてみれば焼きごてを押しつけられているような格好にて、苦しみもがいていたのである。
そのことに早くも気がついた巌然は、ここぞとばかりに梵字を刻み、いよいよ残り三文字のところにまで漕ぎつけた。このままいっきに! と狙うがそうは問屋が卸さない。
不意に腕の中の存在が頼りなくなったとおもったら、狂骨の身がばらばらに崩れてしまった。
かたかたかたかた……。
笑いながら骨が繋がっていき、ふたたび人の形となる狂骨。
千載一隅の好機を逃し、仕切り直しを余儀なくされた巌然の表情がいつになく険しい。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる